第五話 異事(二)

「天球儀は動いていない」

 大臣が首を振って肯定する。

 テハイザの天球儀は何の力を加えずとも自転し、常に天空の星々のその時の位置を指し示す。古来から伝わるこの宝の持つ不思議であり、その仕組みを知る者はない、と言われている。

 自転の速度は大変ゆっくりだが、時間を開けてから球を見れば、確かに星の位置が先頃とは違う位置にあるのが確認できるはずだ。

 しかし現在、天球儀のは、今の昼の時間を示す位置になっていない。青空の中、すでに真上を通り過ぎて西側へ動いた太陽は、天球儀の上では東側に止まったままである。

「正確にいつ止まったのかは分かりませんがね。少なくとも午前中です」

 大臣の声には抑揚がない。天井から入る明るい陽光と真逆の、暗澹あんたんたる声音が石造りの部屋に低く響く。

「なんの因果でしょうな。それがつまり、貴殿が城下に入ろうとした時刻に近いというのは」

 罪人に刑を宣告するように、きっぱりと言い放たれる。

 若い一兵卒ならその重圧に縮み上がったかもしれない。残念なのは、カエルムが若い一兵卒ではなかった点である。異国の美丈夫は、ふう、と吐息して凍りついた部屋の空気を和らげ、前髪を掻き上げて困ったように微笑した。

「なるほど。私と従者が城下で貴殿をお待ち申し上げていた間に止まった。それゆえに、常日頃ない我等の訪問が、本来あるべき貴国の秩序に亀裂を入れた、と……そういうことですね」

 大臣の答えはない。カエルムは構わず続ける。

「しかし、それは買い被りですとも。我々は大国テハイザの国宝たる神秘をどうこうできるほどの大物ではありませんよ」

 横で聞いているロスには、「大臣殿が『小生意気な若造が』と格下に見ている自分が、災禍の兆候になるほどの器ではないでしょう」、という含みがはっきり感じ取れ、内心あーぁ、と呆れた。案の定、大臣の眉間の皺はますます深くなっていく。だが防壁からこのかたカエルムに対して何を言ってもこの調子だったのだ。ようやく観念したのだろう。激して怒声を浴びせ話を長引かせる代わりに、冷たく突っぱねた。

「ともかくもこのような事態だからして、王はすぐさま貴殿と交渉に入れる状況にはおありでないのですよ。諸々もろもろ、手立てを打つために業務が山積みでありますし……何より、事態が不吉極まりありませんからな」

 最後の言葉が指す対象を明言せず、大臣は続けた。

「本日は差し当たり客室を用意しましたが……謁見の許しが降りるかは、明日をお待ちになることです」

 簡単に言えば、もう一日監視されるということだ。あらがっても意味がない。こちらに選択の自由など無いのだから。カエルムとロスは大人しくその言葉、というより命令に従うより他は無かった。


 ***


 カエルムには場内の一室が充てがわれた。室内には、夕焼けの沈む海を臨む大きな開き窓がある。水平線のきわが見る間に黄金から橙色の階調を作り、その中心へ燃えるような太陽が沈んで行く。シレアでは見られない美しい光景だ。

 できることなら明日、どうにかして謁見に漕ぎ着けたい。どうやってあの堅物を説得するかな、と思案を巡らせながら、カエルムは空が流れるように色を変えて行くのを眺めた。

 すると背後の廊下の方から慌ただしくこちらへ駆ける足音が近づいてきた。ロスだ。また何か小言のたぐいでも言いに来たのか。若干面倒に思いながら間口の方へ振り返る。

「どうした」

 入ってきたロスは息を切らしながら、「これを」と、手に持った書状をカエルムへ差し出した。紙にはシレアの楓の紋章が付いており、そして妹の王女のみが使う橙色の紐で閉じられている。

 王女からの伝達とは只事ではない。胸騒ぎを覚え、カエルムは書状を受け取った。

 紐を解いて書面を確認し、そこにある文字に絶句する。

「シューザリーンの時計が、止まった……だと?」

「まだ市内には知らせていないみたいです。とりあえず国外の者が入れないように策はとる、とありますが……」

「書状が飛ばされた時刻から考えれば、もう何らかの手は打たれているな」

 伝書鳩はじめ、急ぎの書状は鳥を使って送られる。書状が書かれたのが昼間。もう夕刻だからして、行動の早い妹ならすでに昼の間に対応策を取ったはずだ。

「しかしこれは……シレアの時計台が止まるなんてことは……」

 前代未聞である。国の宝の時計台の針は、けして止まることなどない。一秒一秒、極めて正確に、何の修理も調整も必要なく回り続ける。

 いにしえより、シレアにある時計はこの鐘楼の時計ただ一つ。他に時間の刻みを知らせるものは一つもない。この時計のみが、一日、一年の時を刻み続け、その鐘の音だけが、国に時を知らせるのだ。

 その時計が、止まるということなど……。

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