第二十六話 波瀾(二)
南の塔を歩いている間には、他の城働きの者たちにも何人か遭遇した。昨日、ロスが街から帰った夜も更けた時分には、カエルムの部屋へ行くまでに誰とも出くわさなかったが、今は昼である。城内でも諸々の業務があるはずであり、むしろ廊下を誰も行き来していない方がおかしい。
ただし、一見したところすれ違うのは下仕えの者ばかりで、重鎮らしき人物はいない。その中にはスピカと親しげに挨拶する若い娘や声をかけてくる老人もいたし、
もう一つ、書庫を出てから改めて実感したことがあった。自分とカエルムの動向に対する監視の目である。
入国直後はあれほど殺伐とした視線を視界の外から感じたのに、今日はそれが無いのだ。都合が良いことに違いはないのだが、都へ入った当初と比べると不気味でもあった。敵意の方が善意より
それでも、自分の庭である城内で水を得た魚の如く説明を続けるスピカに相槌を打ったり適度に質問したりする傍ら、視界の外に何らかの気配が無いか、ロスは神経を張り続けながら進んだ。
かなり上層階まで上がったと思われる頃だ。とある区画の突き当たりを曲がった直後、異常に強い違和感がロスを襲った。
身を取り巻く空間が一変したのである。壁に嵌る扉や窓枠は他の廊下のそれとは全く性質の違うものだった。滑らかで美しい壁の白色は、
足が吸い寄せられる。清らかに艶めく白の面に、腕が伸びる。
「なぁにしてるのー? 早く、こっちー」
すでに一つ先の区画へと進んでいたスピカが、ロスがついてきていないのに振り返って手招きをしている。
「あぁ、悪い」
我に返り、あとちょっとで白木に触れるところだった指を引っ込めると、ロスは小走りになってスピカに追いついた。その空間に関するものを、主は先の書物の中に見つけたか。ロスはいま見た場所を、頭の中に描かれつつある城の見取り図の中にしかと記録した。
***
書庫からどれほどの距離を来ただろう。
曲がるところの多かった廊下が直線になり、その先にやっと終わりが見えた。突き当たりの床には二、三の段が足元にあり、それに続いて硝子の嵌め込まれた扉がある。
「お城の南のはしっこよ」
先に駆けていったスピカが扉の取手を引いた。取手を持ったまま全身を後ろに傾ける。見るからに重そうな仕草なので、ロスはスピカの背中越しに一緒に扉を引いてやる。
意外にも重い扉が僅かに隙間を作った瞬間、強い風が室内に舞い込んだ。突風がロスの上着を勢いよくはためかせ、髪が上へ吹き上げられる。地鳴りの
全身を襲う抵抗に足を踏ん張る。数十秒はしただろう。体が慣れるのを待って、そろそろと眼を開けた。
二人が立つ場所はせり出した露台であり、眼前に広がっていたのは、濁色を濃くし高波を上げる海だった。
「やっぱり、今は外に出るようなお天気じゃないわよ!」
風に飛ばされないよう自分の足にすがって、スピカが非難がましく叫ぶ。そうまで大きな声でないと雨風と波の音に邪魔されて相手の耳に届かないのだ。そう言う短い間にも雨粒は頬を打ち、髪も服も瞬く間に濡れて肌にへばりつく。
「まったくだな! 部屋の中、戻ろう!」
ロスも叫び返して、スピカの胴を足から離すとその小さな体を部屋の方へ回してやり、自分も室内へ退避しようとした。暴風を背中に受けながら扉の中へ足を運ぶ直前、最後に一瞬だけ、と海を振り返る。
——何だ?
欄干の向こうで、荒れ狂う涙が城の方へ大きく揺れ近づき、打ち砕ける。しかしその飛沫の上がる位置が、妙だ。
波の動きに誘われるように視線を下方へ移していく。今いる位置から、欄干の隙間越しぎりぎりに見える水面。
そこでは、海を切り取ったように三方が壁で囲まれた水面があった。波が立っていない。入江城になった壁の周りの水面は雨粒が平坦な濃灰色の面へ不規則に点描を打つというのに、僅かの揺れもなく
——一体、あれは?
ロスはよく見ようと身を乗り出しかける。だが、後ろから上着の裾を強い力で引かれた。振り向くと口をひき結んだスピカの顔とぶつかり——観念した。
欄干にかけた片手を離し、スピカの背を押して屋内へ戻る。風に
波の音は、もう遠い。
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