第三十三話 誘惑(三)

 甘くとろけるような女性の問いかけから数秒後、カエルムは吐息とともに呟いた。

「……そうですね。私も、美しい女性に魅力を感じないとは言いませんよ」

 そう言いながら、引かれるまま相手の腰に当てられた手にやや力を加える。やわからだがわずかに反応し、女性の目が恍惚を帯びて満足気に細められた。

「それでは……」

 期待のこもった眼差しをカエルムはしかと受け止める。そして、小さくも良く通る声が、女性の言葉を遮った。

「けれどもここで貴女あなたと一夜を共にしたら、私の大事な女性が泣くので」 

 触れ合った肌がぴくりと緊張し、寄せられていた胴の間に隙間を作った。しかし、カエルムは握った手の力を緩めなかった。女性はほんの一瞬だけ表情を崩したが、媚態な笑顔を再び作り直し、もとの相手の肌を這うような声音に戻る。

「その方は、この指環を贈られる淑女なのかしら?」

「この指環の片割れに当たるものをもう、持っている女性ですよ。美しい方。それに……」

 肩掛けが勢いよく払われ、薄布に隠れていた女性の左手首が強く掴み上げられた。

「私は勇敢な女性は嫌いじゃないが、卑劣な手口はいただけない」

 息をつく間も無く肩の位置まで上げられた細い手から短刀が滑り落ち、カラン、という硬質な音を室内に響かせる。

「麗しい婦人が美を武器にするのは構わないが、そんなつまらないもので私をおとせるとは見くびられたものだ」

 蠱惑こわく的で自信に満ちた先の笑みをすっかり失い、蒼白になって息を詰めた女性の肢体を、カエルムは有無を言わさず引き離した。短刀へと伸ばされた腕の前をカエルムの手が遮り、華奢な掌が空を掴む。

「別に貴女をどうこうしたところでこちらに利益はない。ただ自室に戻り、朝まで出ないことだ。誰が命じたか知らないが、そちらの策の失敗は朝まで告げない方が身のため——分かりますね」

 空気すら制するような威圧に、女性はじりじりと扉の方へ後じさった。その手が扉に掛けられたところで、カエルムはにこりと笑った。

「さしずめ、かなり高位の権力者からの命でしょう。貴女には歯向かうことなど不可能だったと考えます」

 驚愕とおそれに女性は眼を見開き、カエルムの次の言動を待って身じろぎせずに扉に背をつけた。女性から眼を離さずも、依然として寝台に座ったまま、カエルムは柔和な笑顔で続ける。

「それでも、貴女のように麗しく勇気のあるお方が卑劣な輩のいぬに成り下がってはもったいないですよ。馬鹿な男の言うことなど聞くのはよしなさい」

 敵意も皮肉もない穏やかな微笑みで言われ、女性の顔から警戒と怯えが消えていく。先ほど相手を射抜いた蘇芳の双眸は、いまや気遣きづかいが滲む優しい色を湛えて女性を見ていた。

「それよりむしろ、お姿と同じ美しい行いやそれを認めてくださる殿方が貴女には相応ふさしいのでは」

 女性の白い顔はみるみる紅潮し、恥じらいに目が潤み、息を詰めたまま、引き結ばれた唇が小さく震え始めた。だがそれもごく短く、女性はそのまま身を翻し扉を開けて廊へ飛び出していった。音が響かないよう気を配る余裕は残っていたのか——もしくは気づかれたらまずいという保身か——靴音は小さく床を打ち、それもやがて遠ざかり、ついには聞こえなくなった。

 ふぅーっ、と長く息を吐くと、カエルムはさっぱりと顔を上げて扉の影へ声をかけた。

「覗きは趣味が悪いぞ」

 開かれた扉の向こうから姿を現したロスは、腰に佩いた剣の柄に掛けた手を離して心底面倒臭そうに半眼になる。

「どうでもいいですけどね、追い出すんなら追い出すだけでいいでしょう。自分の命を狙ってきた相手までも色仕掛けで落とすのはやめましょうよ」

「うん? 特に私は何もしてないが」

 またこれだよ、この人は天然で会う女性ひと軒並み落としてくからなぁ……と、ロスはこれまでの外遊の道中で世話になった諸国の宿屋の娘以下、街中まちなかですれ違う女性たちや宮中の女官の反応を思い出してうんざりした。性質たちが悪いのは、本人に幾度か問い正したところ、全く自覚が無いところである。政治やら城の人間関係やらではやたらと気が回るくせに。

「もうどこから指摘していいのか分かりません。女性への優しい言葉は注意して使って下さい。殿下の言動は従者として心底、心配になります」

「心配するのはそこか? 酷いな、身を危うくした人間に向かって」

「そっちは心配する必要が無いからです」

 実のところ、身の危険それが案じられて来たロスなわけだが、それを口にするのはどうも悔しい。ああいうたぐいの色香にほだされるという懸念は皆無だったが。

 しかし来てしまったらついでに、立場上、聞き捨てならない面倒な話まで耳にしてしまった。

「大事な女性って誰ですか」

「いま聞くところはそこなのか?」

「当たり前でしょう」

「安心しろ。王女付きの侍女ではないから」

「殿下」

 付き合いも長く共に過ごす時間も多いロスがさとす機会は少なくない。とはいえ、珍しく本気で怒気が含まれているのを感じ取り、カエルムは一応、素直に謝った。

「悪い。ふざけすぎた」

「……いいですけどね。それに、殿下が歳上趣味じゃないことは知ってますから」

「私がどうこうの前に侍女の方向こうが相手にしないだろう?」

「いい加減にして下さい……ったく、あんたがああいう発言するのは大問題なの分かってます? 特に国外で!」

 はは、と答えの代わりに、いずれは玉座の横に座る伴侶を迎えるだろうこの王位継承者は、面白そうに顔を上げた。正直、正座させて説教したいところだが、これ以上言及しても相手がロスなら適当にはぐらかされるのは目に見えている。

 ロスは今すぐにでも国で待つ恋人に、自分の主——彼女が世話をする人物の兄に当たる——を叱りつけて欲しかった。

 そんな心労多い従者に、カエルムは真顔に戻って呼び掛ける。

「取り敢えず、本気で早いところかたをつけた方がいい風向きだな。ロス、夜のうちに調べておきたいものがある。行くぞ」

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