第三十二話 誘惑(二)
妖艶、というのがその人の第一の印象である。
一本だけ灯した燭台が、人物の顔を照らす。南方人らしい明るい肌色の女性だった。化粧を施した顔は類い稀な美しさであり、紅をさした唇は薄暗い部屋の中でいっそう
蝋燭の焔を受けて
「お待ち申し上げておりましたわ。噂に
ねっとりとした甘い声音。猫のようにしなやかに、女性はカエルムの目鼻がすぐそこになるほど近くまで進み出て、そっとカエルムの手を取る。カエルムの指に嵌めた指輪の碧の宝玉が、燭台で揺れる焔を映し出した。
「
「名前など……大したことではありません。そうではなくて?」
女性は緩やかに、しかし有無を言わせぬ意志をもってカエルムを部屋の中央まで
「少し、お話をなさりませんこと?」
「それはどのような」
「あら、何でも構いませんわ。でもそうですわね……シレア国のことなど」
「我が国に興味がおありですか」
「もちろんですわ。お隣の美しい国ですもの」
ふふ、と形の良い唇を笑みの形にし、女性は続けた。
「シレアにはとても豊かな森があり、山から下りるシューザリエの大河には人に分からぬ不思議な力が……と旅の者の噂に上がります」
「ええ、シューザリエは美しい川ですよ。農耕や林業を生業にする者が多い我が国の宝です」
「シレアには海から来た妖精が移り住むと伝説があるでしょう? それほど力を持つ何かが国を守っているのかしら」
「さて、その昔話は幼い頃から聞きますけれど。私は残念ながら妖精に出会ったことはありませんね」
見上げる女性の視線を
「本当にご存知ないのか、隠していらっしゃるのか……ではお話を変えましょう。そう、シレアの姫君。隣国には利発で美しい姫君がいらっしゃるとか。カエルム様よりもずっとお歳も離れておいでなのに聡明で賢く、何にも動じぬ強さを持つと」
妹の話を出され、カエルムは眉をひそめる。そのことに気が付いていないのか、女性の話は淀みなく続いていた。
「妹姫さまは我が国との関係をどう思っていらっしゃるのかしら。テハイザへいらしたいなどお思いにはならなくて?」
「……妹が望めば、いつでも連れて来ましょう。ただ、貴国と誠意ある御挨拶が出来るような状況であれば、という条件なら。何がお聞きになりたいのでしょうか」
四肢が微かに緊張したのを悟られぬよう、カエルムはそっと自分の手を女性から離そうと試みた。しかし女性はカエルムの手が逃れる前に指を絡ませ、もう片方の手を重ねた。そしてカエルムの手の甲に自らの掌を滑らせる。
「なかなか、お国のことについてはお話になってくださらないのかしら」
「お聞かせして貴女に面白いような大したお話が出来る自信がありませんので」
その返答に、女性の喉から鈴が鳴るような小さな笑いが漏れる。
「お上手ですこと。そう、そうですわね。大したことではないわ」
そのまま柔らかな両手でカエルムの手が包み込まれ、彼女の冷えた頬へと当てられた。
「むしろ重要なのは、わたくしが貴方の旅のお疲れを癒すこと……今宵、貴方を全てのご心労から解放することですわ」
まるで見えない糸を
「どうやらお心遣いのようですが、貴国のもてなしのおかげで私はそこまで疲れてはおりませんよ」
「あら。諸国を回られてきたのでしょう?ご無理なさることはありませんわ」
そう言いながら女性は、右手をカエルムの胸に這わせながら、豊かな身体をひたとつけ、媚びるように見上げた。
「殿方が表向き、強がりをお見せになろうとすることくらい、わたくしのような学知も思慮も浅い女性でも分かりますもの。でも今宵は忘れて……」
女性は右手を離し、カエルムの背の後ろに置いたようだ。寝台の布団が微かに沈む。一方で彼女の左手に取られたカエルムの手はいつしか、女性の腰に回されていた。
彼女はさらに顔を寄せ、熱い吐息がカエルムの首元に感じられるところまで近づく。
「宮中の女性の苦しみも普段は表に出せないもの。お互いを慰め合わなくて? 殿下」
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