第四十四話 鳴動(二)

 窓の桟を軽く蹴って、カエルムは宙に身を投げた。視界の右側に例の不可思議な水面が見える。半円形の部屋で左端の窓から出たのだ。自分の目指す落下点は真南にある水面からやや東にずれたところに当たる。

 脚の裏に空気抵抗を感じながら真っ逆さまに落ちる。肩口で留めた紅葉色の羽織が吹き上げられ、頬の横で布が風に叩かれて鳴った。頭上から聞こえていた騒音は羽織の音に邪魔され、どんどん小さくなる。それに反比例して城に面した蒼い水面がみるみるうちに近くなり、城の最下層の壁から一段迫り出した石灰石の塀が眼前に迫ってくる。見る間に近づくそのへりに、カエルムは着地間際で手を掛けた。

 ザンッ——

 着陸点が大きく揺れて高く飛沫が上がった。水滴が足元に斑点模様を作る。

 靴底に当たったのは水面ではない。木の板だ。

 揺れを緩和するため、石塀に乗せた手の指に力を入れる。板のぐらつきを抑えて均衡を整えると、カエルムは目の前に座る人物に笑いかけた。

「あそこから飛び降りるには絶妙な位置だ。さすがですね」

「決まってるじゃない。この城のことなら、あたしは隅から隅まで知ってるもん」

 狭い木船の端に座ったスピカは、自慢気に来訪者を見上げる。そして伸ばした細い脚をすっと曲げると、「よっ」と弾みをつけて軽々と立ち上がった。

「じゃあ王子さま、ちゃんと乗った? 適当につかまって。出発するから!」

「お願いします。馬がいるところまで」

「もちろんはじめっからそのつもり……て、あたし相手に丁寧な話しかたはやめて、ください……」

 元気良く答えた声が尻すぼみになり、スピカはむう、と膨れた。

「ああそうか、嫌だったならそれは悪いことをした。ほら、それは私がやるから」

 苦笑しながら、スピカが握り締めている、少女の身の丈よりもずっと長い櫂を受け取る。波の少ない水面に降ろし、水を掻いた。城の壁に沿って削り整えられた石灰岩の脇を、小舟が静かに滑り出す。

 波に逆らって水面に一定間隔で線が引かれる。舟の均衡を取るため、スピカはカエルムとは反対側の船のへり近くに座り直した。

「この水道は?」

 カエルムは楷を動かしながら左右を見回した。二人の船が進んでいるのは、城の壁と、城に沿って並ぶ岩場との間に流れる細い水路であり、小舟はそこを海とは逆側に遡っているのだった。

「ここはずいぶんと昔からあった水路みたい。お城の端っこと端っこを繋いでいるの」

「端っこと端っこ?」

「うん。南端と北端。正直に言っちゃうと、さっき王子さまが落ちてきたところに行くにはお城の中を迷路みたいに行くよりも、ここをすいーって行っちゃった方がよっぽど早いんじゃないかしら」

 水路が城の南北を直線で繋いでいるなら、確かに回廊の複雑な城内を走り回るよりよほど近道だ。脱出経路としてクルックスかスピカが選んだのなら、城の敷地内への入り口付近まで繋がっているはずだろう。王の部屋が昔からあの場所にあったとしたら、何か物か人を王のところへ直接移動させるのに使ったのだろうか。

 水路の水はあまり波立たず穏やかではあるが、確実に海の方へ向かって流れている。櫂にかかる水圧がきつくないので、手の動きに律動をつけやすい。

「この水路の水はどこから引いているのか、知っている? 人工的に後から作ったのか……」

「あら王子さま」

 くるんと瞳を動かし、スピカは屈託なく答える。

「海に流れるのは川よ。決まってるじゃない」

「川とは……シューザリエ大河の支流ということか?」

 テハイザの海に流れ入る川は、北方の山からシレアの国を縦断して南へ向かい、テハイザ国の港から珊瑚礁海へ至るシューザリエ大河以外にはない。

「そうよ」

 水面で跳ねる飛沫を映して、スピカの瞳がきらきらと光った。

「川は必ず海を目指すでしょう。山からずーっと長い道を辿るけど、でも川はいつだって、海に向かって進んでるんだもの」

 この非常事態だというのに、スピカの話ぶりは歌を歌うようだ。

 雨に降った水が集まり、川となり、山を降りて平野を流れる。どんなに蛇行し支流に分かれていても、大河は自らの道を失うことはない。向かう先は、大海。

 ちょうどカエルムの頭に浮かんでいたことを言われた。小さいながら自然界のことわりをよく承知している。カエルムはこの少女の頭の回転に感心しながらも、兄も親も側にいない彼女の境遇が気にかかった。

 スピカの黒に近い髪の毛が風に靡き、夕陽を反射して艶やかに光った。もう日暮れが近いのだ。水が茜色に染まり始めている。

「早くここを出ないとまずいが……城の中から攻撃されたりしないといいがな」

「大丈夫、この水路はお城の中からは見えないもの」

 間髪入れずにスピカが返す。満面の笑みを浮かべ、こちらの懸念を一掃するほど自信たっぷりだ。どういうことかと上を見上げると、ちょうど前方に渡り廊下が近付いてきていた。先ほど脱出してきた北の塔と、書庫のあった南の塔を結ぶ渡り廊下だ。低層階にかかっているので、昨日ロスが渡ったというものだろう。かなり水面に近い。それこそ、廊下から外を見ればすぐに見つかってしまうだろう。

「ああ、なるほどな」

 差し迫った廊下を見上げれば、確かに城の中から見つかるという心配は全く無かった。頭上を渡る通路は一面、白亜の美しい壁で筒型を作っており、どこを見ても小さな窓すら一つとしてついていないのだ。さらに上を見ると、こんな細い水路を見下ろす開口部など城の壁にはあまり数がないようだし、そもそも上階の換気窓から見下ろしたとしても、渡り廊下が邪魔をしてほとんど死角になっている。

「そういえばロスが窓無しの廊下があると言ってたな。あれが、スピカとロスが昨日通ったと言っていたもの?」

「そうよ。だからこっそり移動するなら、この道が一番安全なの!」

 もしかしたら、古来から王が身を隠して行き来した道なのかもしれない。主君が城内に仕える者たちの眼を逃れて行動しようとするのはよくある話だ。上手いこと城を作ったものだ。これなら弓や何かで邪魔されることなく外に出れそうだ。

「そこの廊下の下を潜り抜けたら、もう少し!」

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