第六話 異事(三)

「妙だと思いませんか、殿下」

 息を整えたロスが、真剣な面持ちで口を開いた。

「この国の天球儀が止まった時刻と、シレアの時計が止まった時刻……」

 カエルムも同じことを思っていた。

「ああ。もしかすると、同時としてもおかしくないな……」

 両者ともに午前中だ。二つの国の宝がどちらも、途絶える事がないはずであるその動きを止めた。偶然にしては出来過ぎている。自分達の知を超えた不可思議なことが起こっている。具体的なことは分からない。分からないがゆえに、カエルムの頭の中でこれまで経験したことのない強い警鐘が鳴った。

 常日頃の秩序が崩れる。その恐ろしさ。

 未知の出来事は不安を招く。そして不安は混乱を招き、そのほつれが広がるのは、どれほど速いだろうか。

 書面を巻き直し、橙の紐で括って懐に入れる。

「ともかく、妹がどんな策を取ったか早々に確認しておきたいな。国の政策として出すのなら私が知らないとまずい。旅行者や外国商人にも触れが出されたとすればなおさらだ」

「ええ。でも姫様から連絡が届くまでは少し時間がかかるかもしれませんね」

 ロスも頷き、しばし思案する。

 すると二人の言葉が途切れた部屋に、扉を軽く叩く音が響いた。

 ——まずい。

 気配は感じられなかった。いつの間に扉の前に来たのか。話を聞かれたかと二人は顔を合わせる。大臣かその腹心であれば、こちらの弱みを握るのに最高の話題だ。

 しかし、いらえに扉を開けたのは、先に二人を案内した青年だった。扉を開けた青年は、二人に向かって丁寧に頭を下げる。

「お休みのところを失礼致します。自分は城で王の近辺の雑務を務めております者です。何かお困りのことや御要望のものがあれば、と思いまして参上いたしました」

 凛と響くやや高めの声。短く切った栗色の髪と同じ色の瞳が印象的だ。年の頃は二人よりもいくらか若い。大体、カエルムの妹であるシレアの王女の一つか二つ上くらいか。大臣のような仰々しい身なりでも、兵のように剣を携えるでもなく、あくまで雑用らしく簡素で動きやすそうな上下を着ている。

「お心遣い、感謝いたします。そうですね……」

 青年の様子では、会話を聞かれたか分からない。ただ、大臣の見せた剥き出しの悪意も感じられず、むしろ誠心誠意、客人の訪問をもてなす姿勢だ。邪気のないその様子を信頼してみよう、と、カエルムはロスと目を合わせる。

「折角なので、城の中を見せて頂けませんか。我が国とは全く違う造りと装飾で興味深いのです。勝手に歩き回るのははばかられますが……なに、貴方あなたが一緒なら大丈夫でしょう?」

 礼から姿勢を戻した青年は少し意外そうに目を丸めた。それでも、さすが宮廷勤めというべきか、よく振る舞いを訓練された従者と見える。すぐに「どうぞ」と二人を廊へいざなった。

 カエルムとロスが揃って廊下へ出ると、青年は扉を閉めて小さな貝殻のついた鍵で錠をする。

「どちらへ行かれますか」

「そうですね……何か、貴方がこの城やテハイザ国の中でも特に美しいと思う物を見てみたい、というお願いはわがままでしょうか」

「僕の、ですか?」

「心あるもてなしをしてくださる貴方のような方が誇るものなら、きっと素晴らしいと思えますから」

 隣国の王子から褒め言葉と人好きのする笑顔を向けられると、青年の瞳に僅かに喜色が浮かんだ。それならこちらへ、と先に訪れた天空儀のある部屋とは反対方向へ歩き出す。


 ***


 廊下には一定の間隔で窓が設けられ、その外で夕陽が落ちていく。海側は青と赤が混じり合い、街の方では斜面に沿って並ぶ屋根の朱色が照らし出され、ますますその鮮やかさを増している。

 遠くの道で街灯の火が一つ一つ灯されて行くのを見やりながら、カエルムはふと思いついて提案した。

「ところで、城下にどこか地元の人に評判の店などはありますか?」

「いくつか……ありますけど」

「いえ、実は先ほど部屋で話していたのですけれど。私の連れが、せっかく来たのだしテハイザの美食美酒を味わわずには帰れないとね」

 ロスは全く聞いてない話だ。一瞬、驚いて口を開きかけたが、カエルムと目が合うとすぐに合点し、調子を合わせた。

「指示された頃には戻りますよ。何なら、城のどなたかと一緒でも構わないけど。なるべくこの街の人が普段から行くような店がいいな。味がいいところがよく分からなければ、目利きの商人の行きつけだったら間違いない」

 青年は少し迷ったように瞳を泳がせたが、街の中でも城に割と近い繁華街の店を数件挙げた。だが、やはり遠慮がちに付け加える。

「でも色々とお疲れでしょう。閣下に知られても窮屈でしょうし……」

「待って兄さん」

 突然、廊下の先から高い声がし、角から少女が飛び出した。

「スピカ」

 スピカと呼ばれた少女は青年よりもずっと歳下である。とおを少し過ぎたくらいか。まだ子供と言っていい。青年と似たようにそこまで上等とは言えない貫頭衣に身を包み、肩口まで伸びた髪を一つに結んでレース編みの水色の布を頭に被っている。手には空の籠を抱えていた。

「あたしがお連れするわ。さすがにこの王都は広いもの。お客様が道に迷ったら大変。後から大臣に色々言われたくないし」

「でも、おまえの方の仕事は」

「ちょうど街にお遣いを頼まれたところ。外に仕事に行っていた人達の馬車が城門に入ったところだって」

 その言葉に、ロスとカエルムは互いに目配せをして頷く。

「あたしは遅くまで外にいられないからお送りするだけになるけど、何か聞かれたらあたしが一緒に行ったって言えば平気でしょ?」

 さも自信あり気な少女の提案だが、青年はなかなかうなずかない。その様子を見かねてか、スピカは二言、三言耳打ちし、それでようやく青年も首を縦に振った。

「もう少しで下人の出入りする通用扉がありますから、そちらからお出掛けください。多少、出入り口の辺りは客人をお通しするには見目が悪いですが。お帰りの際にもそちらをお使いいただけましたら。今日の番は僕とスピカしかいませんので」

 四人連れ立って階下に下ると、スピカはロスの手を引き、正面玄関とは別の方を指差した。通用門の方向は、なるほど廊下の装飾も気持ちばかり少なくなっている。四人はそこで二組に分かれ、カエルムは青年に先導されて城の中央へと廊を進んだ。

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