分かれ道(6)

領主は忙しい。その点は否定する余地がなかった。権力が領主に集中し、システム化されていない政治は効率が悪く、ひたすら領主の手腕を必要とした。硬直した日本流の元凶であるという言い方もできるが、統治システムという点では日本のほうが中世において優れていたように思われた。

「日本……?」

こうして考え事をしていると、ディアボロスは少しずつ前世の知識が輪郭を持つのを感じていた。ここに来たばかりの頃はありとあらゆる名前がぼんやりとしたものであったが、今はこうして少しずつその記憶や知識が具体的なものになってきている。

ディアボロスはまず簡単な法律を制定し、一律に適用するものとした。基本的には前領主から続く伝統を踏襲したが、今の文化、文明においても状況によらず明らかに罰せられるべきことを加え、統治者に対する無礼な行為などを咎めることをやめた。

そして法を執行する者はその理解が進んでいる者を任命した。法の執行は絶大な力であり、故にその力は抑制的にした。立場を弱くするだけでなく、その力を濫用する者には特別に思い処罰をするものとした。

そして次に医療と教育をシステム化した。医療は要と判断される場合は全て公的に負担するものとし、民の負担をなくした。また、幼少の者は日々短い時間ではあるものの、教育を受けねばならないと定めた。身分の高い者に特別に用意されたものを開放した。

そして、衛生の水準の向上のため考えられる策を次々ととった。水路の確保など、力のいる部分はディアボロスが自ら働いた。

ネルラを含めた重臣たちは次々と禁忌を犯し、あるいは想像だにしないことを指示するディアボロスに驚いてばかりであったが、すぐに慣れてディアボロスの命令には良い笑顔が返ってくるようになった。

この領にきてから誰もがディアボロスに好意的だったが、こうしていることで民からも、女たちからも信頼も好感も得られていることが実感され、ディアボロスは日々上機嫌であった。

それでもディアボロスは数日に一度は礼拝堂に足を運んだ。この世界の神には疎いが、そこでディアボロスはマリーのために祈りを捧げ、胸の内でマリーに語りかけることを欠かさなかった。


ディアボロスが初めて外交することとなったのは、ここにきて二週間を過ぎてからのことであった。急に訪ねてきたのは穏やかそうに見えて知識な空気を纏わせた初老の紳士である。それが何者であるかということは、先程騎士から聞いていた。グラルス・フォランタ・ノイラル公爵。前領主であった。

「この短期間で随分と変わったものですな」

字面だけみれば不満の表明にも聞こえるが、フォランタ公は実に楽しげであった。

「俺か治める以上、民に、それ以上に女たちに幸せになってほしい。考えているのはそれだけだ」

ディアボロスがそう答えるとフォランタ公はまた楽しげに笑った。同席しているのはネルラと、フォランタ公の妻である。聞けばフォランタ公は子宝に恵まれなかったのだという。

「ネルラ君は昔から飄々としてあまり夢中になる姿を見せない子だったが、君のことを話すときは途中でカップを倒したのにそれに気づかないほどでね。あんな熱弁を振るう姿に、まるで孫が成長したようで喜ばしいものでしたよ」

ネルラは少し赤くなって照れ隠しのようにむくれた。年の差を考えると孫というにはいささか大きいような気もするが、ネルラがノイラル公に仕えたことから知っているのだろう。

「あれほど熱弁を振るうのだから任せることに迷いはなかった。それでも、こうして君が治める姿を見ることができて安心しました。民の笑顔が全てを物語っていました」

実際、善良な民に恵まれたこともあり、実に理想的な統治が実現しており、ディアボロスの手腕は誰しも讃え、もはや信奉しているといっていいほどであった。それがディアボロスの能力や人格を逸脱するほど過剰な評価であることはもちろんディアボロス自身もまた認識しているのだが、結果だけみればそれに値するほどうまくいっているのだった。

「ところでディアボロス殿、そろそろ当地の名を決めなければ皆が困ってしまうのではないかな?」

「困る?なぜだ?」

ディアボロスが聞き返すと夫妻は怪訝そうな顔をした。ネルラも同じようなものだが、慣れたネルラはすぐ気づいたようだった。

「閣下、私達の名前は自分が属しているもので決まるのです」

「ん……どういうことだ?」

「私の場合、ネルラ・ティアス・ノイラルになります。ネルラは私の名前。ティアスは私の家の名前。そしてノイラルは私の国の名前です」

「ふむ……」

「仮にこの領地の名前をフォランタだとすると、私は今フォランタに仕えていることになりますから、ネルラ・ティアス・フォランタ・ノイラルになります」

「うむ……?」

「つまり、この領地に属している者は全てこの領地の名前を名乗らなければならないのですが、この領地に今名前がないので、皆名乗ることができないのです。所属しているものを飛ばしてしまうのは不敬となり、処罰の対象にもなります」

「そういう仕組みなのか……それはこの国だけの話か?」

「いえ。少なくとも周辺諸国においても名前はそのようになっています」

ディアボロスが後に聞いたところでは、ここに来る以前のフルネームは、ルシカがルシカ・アニュム・エルアテリス・ディエトリア・ディエンタール、アオカナがアオカナ・ラシュヒシエ・エルアテリス・ディエトリア・ディエンタール、ティシャはティシャ・アニュム・ロシエ・ディエトリア・ディエンタールであるという。家名が「アニュム」であるのは、ディエンタールにおいて出自である家が不明であることを意味し、ルシカとアオカナは娼館であるエルアテリスの名を、ティシャは庇護を受けていた家の名前であるロシエを冠し、王都ディエトリアに続き国名であるディエンタールと続く。必然的に、身分が低かったり、複雑な身分であると名前は長くな、短い名前を関することは余人の干渉を受けないほどに身分が高いことを示すため誉であるという。

「ディアボロス様は一応、形式に則ればディアボロス・アネ・ノイラルということになりますが、ディアボロス様がこの世界の人でないことを考えればそのように名を呼ぶことは不敬になる、と私を含め皆考えております。ただ、それだと私を含めディアボロス様の家に属すべき者が名乗るべき名前がなく、そしてこの領地の名前が抜けてしまいます」

「それは……全く想像だにしない問題だな」

確かに、名前の通用という点ではある程度国を越えて地域に通じるものがあり、そのルールを破る、というのは様々なところで支障が出る可能性が高い。商人以外の民が領外へ出ることはあまりないようだが、とはいえ名乗るに困ってしまうような状況では民が困るだろう。

「しかし、その意味ではディアボロスという名にも一考の余地がありそうだが」

「閣下のお名前になにか?」

「いや……ディアボロスという名は、俺のいた世界で悪魔を意味する」

その言葉に場が少し緊張した。ネルラは表情に出さないようにしていたが、それでも緊張は伝わってきた。

「本当のお名前は別に?」

「あるだろうが、覚えてはいない」

実際、ディアボロスは自分に関すること、そして自分の身の回りに関することはほとんどといっていいほど思い出せなかった。思い出せているのは知識に関してだけで、自分がどんな身分で、どんな暮らしをしていたかということは、まるで思い出せないのだ。

「ご自身がお嫌でなければ、無理に変えることもないのではありませんかな」

ネルラの困惑を見てフォランタ公が口を挟んだ。

「この世界でディアボロスという言葉が悪魔を意味するわけではありません。その響きは私達にはないものであり、別の世界から来たディアボロス殿にふさわしい響きを感じます。」

「…………考えよう」

ディアボロスは静かにそう答えた。


フォランタ公はネルラや領民の評に違わない、穏やかで知的で、民思いな人物であった。ディアボロスはこの地のこと、民のことなどをフォランタ公と大いに語り合い、時が経つのを忘れるほどであった。

フォランタ公は帰り際、こう言い残した。

「本領でノイラル公が待っています。ディアボロス殿に侯爵位が与えられることとなっています。ぜひ、お越しください」

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