宵闇の乙女
夜。
ディアボロスは目をさました。隣ではマリーが寝ている。黒髪を短く揃えたマリーは綺麗で、しかしこうして寝ている姿を見るとひどくあどけない。寝息すらも耳をそばだてなくては届かないほど静かに眠っている。貴族というのは眠り方すらも上品であるように訓練されているのかもしれない。
「さすがですね」
低めの、流れるような女の声がした。ディアボロスは驚かなかった。ゆっくりと振り向く。宵闇の中姿を照らすものは何もないが、ディアボロスは夜目がきくようである。少なくともそれがどのような姿をしたものであるかは判別できた。薄い金髪にりりしい赤い目、町娘のような格好をしているが、身なりも振る舞いもあまりにも品がよすぎる。高い身分を隠すことはできておらず、町娘を名乗るにはひどい違和感であった。後ろに二人の男が無関係のように控えている。
「見事な侵入芸だな。間者か」
できるだけ静かに立ち上がる。もしもここで戦闘になったならば、マリーは絶対無事では済まない。できるだけゆっくり動き、女を捕まえて握りつぶすくらいはできるだろうが、相手は三人。なるべくならマリーを巻き込まずに済ませたい。
「ご安心ください。私は敵ではありません。武器は何も携行しておりません」
女が言った。確かに、武器は見えなかった。こうして忍び込んだことからしても、騒ぎを起こす意図はないのだろう。考えられるのはマリーの暗殺、もしくはディアボロスとの接触。
(王国の人間か…?)
自然な答えだが、ディアボロスはすぐその考えを否定した。王の態度から考えても、また王の認識からしても、ディアボロスを倒そうと考えるのはだいぶ無理がある。もし仮にそう考えたとしても、暗殺などという手段を考えるだろうか。いや、正面からでは倒せないと見て暗殺というのは考えられなくはないが、それもやはり無理がある。それならばマリーにやらせるか、マリーでなく暗殺に適した人物をつけるほうが可能性はある。
それにこの女、少し違和感がある。なんとなくだが、顔立ちがこの世界で見てきた者たちと少し系統が違う気がするのだ。
「手短に」
「私はノイラル公国の騎士、ネルラです。この度は貴殿を我が国に迎え入れるべく、お話に参りました」
ディアボロスの言葉に間髪を入れず答えた。しっかりと用意してきている様子だ。その言葉は予想の範疇であり、ディアボロスは驚かなかった。
「貴殿が所望されている女については、お望みの通り用意させていただきます。こうして私がきたのもそのため」
女が続けた言葉には少し驚いた。「女の価値と人権」という意味ではディアボロスの感覚と異なることは理解しているが、それでも明らかに高貴な身分にある人間が、怪物と恐れられる存在との交渉に自ら出向き、なおかつ自らが貢物の一部であるという。そこに女の意思が全く介在していない可能性もあるし、考えれば不思議ではないのだが、ディアボロスの直感には反していた。
「貴様が俺のものになると?」
「はい」
迷いなく答えた。相当に覚悟が決まっているマリーですらも怯え、様子を窺いながらであるというのに、ネルラは全く恐れてもいないようだった。
「…おもしろい」
対応に苦慮しているディエンタール王国と比べるといい決断っぷりだった。ディエンタール国王は懸命だが、それでもディアボロスを敵にしないため、機嫌を損ねないようにという色合いが強く、それでいて妥協はしない姿勢でいる。そして、まずい手を打たないよう、慎重に事を進めている。それに対してノイラル公国はディエンタール王国の手の遅さを突いて全力でかっさらおうという考えに出たわけだ。
ディエンタール王国と違い、ノイラル公国は別にティアボロスと関わらなくてはならない理由はいまのところない。もちろん、ディエンタール王国がディアボロスを取り込んだ場合、ディアボロスに実際にその意思があるかどうかによらず周辺諸国としてはディアボロスが侵攻に加わることを考えなくてはならない。わずか三日の間にその情報を収集し、決断し、動くところまでやったのである。
「既に屋敷と領地、侍従、そして食料まで体制は用意してあります。その他、お望みのものがあればなんなりと」
ネルラが言う。堂々と、自信たっぷりである。ディアボロスが王に条件を出したときに間者が聞いていたとは考えがたいのだが、完全にディアボロスが何を望んでいるかを把握している態度だ。だが、その条件はディアボロスとしては「とりあえず出してみたもの」であるから、それで万事良しというわけではない。ディアボロスが考え込んでいると、隣で動きを感じた。マリーが起き上がった。
マリーは目をこすり、ぼんやりとその光景を眺める。そしてはっとしたように飛び退いた。
「マリー」
ディアボロスが低い声で言う。
「他言は無用だ」
はじめての殺気を感じ、マリーはこくこくと頷いた。
「紙とペンは」
「こちらに」
後ろに控えていた男が差し出す。武器ではない、とは思っていたが持っていたのは紙とペンであった。準備のよさに、さすがにディアボロスも面食らった。
「俺はこの国の言葉は書けない。貴様らが書け」
ディアボロスはそう命じた。ランプに火を入れる。どうやって火をつけるのかと思ったが、指に何かをつけてランプの先端をこすると火がついた。
三人の姿が映し出された。ネルラは、予期したよりもはるかに美しく、思わず唾を飲むほどだった。男たちは背が高くがっしりとしている。こちらは専門のスパイだろうか。
男がテーブルに紙をおき、ペンをとった。ネルラが聞き取り、男が書くということになったようだった。ディアボロスはそれを認め、条件を並べた。広く、水洗トイレを普及させ、風呂を普及させること。水の衛生を高めること。文化水準を高めるための研究組織を結成すること。国家として医療研究を行う組織を結成すること。条件は継続的に追加されたり補充されること。
ノイラル公国の者たちは、それが意味するところが理解できず、ディアボロスは事細かく説明した。ネルラにも、男たちにも困惑の色が浮かんでいた。それは、なぜその要求をするのかということよりも、その要求そのものに説明が必要であるということだった。
「これらはこの国にも要求する。より早く、完全ではなくとも形にできたのなら、そちらを選ぼう」
男が書き終えると、ネルラはすっと胸の上に手を当てた。
「ありがとうございます。必ず。少しの間、お待ちください」
そう言うと、三人は静かに部屋を出ていった。
「…他国の方ですか」
マリーが口を開いた。
「マリーは本当に物怖じせんな。なぜそう思った」
ディアボロスは呆れたように言った。
「書かれていた言葉が、違いました」
なるほど。国ごとに当然ながら言葉は違うか。
「他言無用」
「心得ております」
言葉が違う…そのことにディアボロスはひっかかりを覚えた。そもそも、この国で見る文字はディアボロスには覚えがない。だから、いくらか言葉は覚えたが基本的に読み書きは全くできない。だが、マリーとの会話に困ることは全くない。
「話す言葉は同じたったな」
「はい」
確信は全くなかったが、ディアボロスはそう言った。マリーの字が読めない。ネルラの字も読めない。だが、言葉は通じている。ディエンタール王国の言葉がディアボロスに理解できるとして、ノイラル公国の言葉はどうだろう?全く不明だ。少なくともマリーがネルラたちの字が読めない以上、言語は異なると考えられる。ディアボロスにとって支障はないのだうろか。
「…国を出られるのですか」
マリーが尋ねた。
「マリーがどうしても側にいてほしいと言うならば考えないではない」
ディアボロスは冗談めかしてそう答えたが、マリーは何も言わなかった。
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