分かれ道(5)
この世界にきて以来の快適な寝床で女を着るようにして休んだことで、ディアボロスはいくらか心も癒えたような気がした。
「おはようございます」
支度を済ませたネルラが微笑んだ。アオカナとルシカも起きてはいたが、柔らかで肉感豊かな体をディアボロスに押し付けており、特にルシカは熱のこもった目を向けながら体を押し付けていた。
ディアボロスがその様子を眺めていると、アオカナがディアボロスの体に口づけたが、ネルラがそれを止めた。
「閣下、申し訳ありませんが、本日のお仕事が詰まっておりますので、情事はそのあとに」
アオカナはやや不満そうにディアボロスの体を降り、ルシカはそれでも諦めきれないというようにディアボロスを見つめていた。
「仕方ない。責務を果たそう」
ディアボロスはのそりと起き上がった。
ディアボロスに用意された服は、今まできていたものと比べていくらか豪奢で、格調高いものであった。その服装は、元の世界の歴史にあるような中世の服装ではなく、どちらかといえば司祭が着るような服に近かった。
「服もなんとかしたいものだな」
ディアボロスがぼやく。ディアボロスとしては服に頓着するほうではないと思うのだが、それにしても服装が野暮ったい。
そんなことを思いながら執務につくと、まず臣下の多くが揃っていることに驚いた。ネルラに何かと問うと、遂行中の任務がない者はディアボロスの命を待っているという。
「命令されなければ動かないのか!」
ディアボロスは思わず呆れて言葉にしたのだが、臣下たちは叱責されたと思い、ディアボロスが慌ててフォローすることとなった。
これはどういったことかとネルラに説明を求めたが、ネルラの口から聞いた執務の流れはディアボロスの想像と随分乖離したものであった。
曰く、ディアボロスの臣下というのはあくまで「ディアボロスの命令を遂行する駒」であるというのだ。もちろんある程度は階層化されており、騎士団長、兵隊長といった役職は存在するため、ひとりひとりに命令する必要はない。とはいえ、「ディアボロスが命令すべき対象と、その内容」があまりにも多い。つまりは、「大枠の決定」というものがないのだ。あくまで個別にディアボロスが命じなければならない。
そしてそもそも、ディアボロス自身がしなければならないことがあまりにも多いのだ。臣下への命令は「日々の」ものであり、内政に関わること、軍事に関わること、外交に関わること、そして司法に関わることも全てディアボロスの仕事だという。城内のことはネルラが請け負ったが、それでも本来であれば城内のことすらもディアボロスが指示せよというのだ。
「いくらなんでも組織として幼稚すぎるだろう」
ディアボロスがぼやく。近代国家であれば、そもそも絶対権力者がいるということはあまりないはずだが、仮に絶対権力者がいたとしても政というのは君主の名なしに動かないというようなものではないはずだ。単に命令系統があるというだけではなく、「上は細部までは関知しない」というのが普通の構造である。
人数が少ないということもあるにせよ、ディアボロスの感覚ではこれは政治というよりも、ベンチャー企業の運営のようであった。
と、考えるとふっと楽になった。
つまり、この領地というのはベンチャー企業であり、ワンマンなベンチャー社長が退任し、外部からコンサルタントが新しいトップとして入った、という状況に似ている。
そう考えればなにをすべきか、といえば、まず「改革」という言葉こそが浮かぶだろう。もちろん、現状うまくいっていてそんな必要はない、ということだって考えられるが、組織として数百人、全体では数千人という規模のトップとしてこれではまずいというのは明らかだった。
そして、この運営がこのような形式であるのは、特別な理由があってそうせざるをえないのではない。あくまで、この世界ではそれが普通だからそのようにしているだけだ。これこそ、外からの風によって改革すべき状況といえるのではないか。
「よしっ」
ディアボロスは勢いよく立ち上がった。既にアオカナとルシカは城内の「家事」の仕切りのために奔走していたし、ティシャは礼拝堂で勉強をしていたから、そこにいるのは重臣とネルラであり、ネルラはそうしたディアボロスの行動を微笑みながら見るばかりであった。
「今日から貴殿らの常識を、当たり前だと思っている全てを変えていく!不平不満は全て成し遂げてから口にせよ!」
重臣たちは慌てて敬礼した。
ディアボロスが最初に取り組んだのは活動の定型化、報告形式の確立、そして責任の明確化であった。
現状では、あくまでもディアボロスが個別に命令することになっている。だが、既に知識のある人間が揃っているわけで、ディアボロスはその者たちに進言させるのではなく、自身の裁量で良いと思うように指示できるようにするとした。それまで進言と伝達を担っていた重臣の仕事を、指揮と報告に変えたのだ。
報告はネルラが受け取り、ネルラがそれをまとめてディアボロスに報告する、という形式をまず固めた。活動の方針はディアボロスが命じ、その命令は報告に基づいておこなう、という方式だ。ディアボロスは、報告を怠ったり虚偽を報告すること、あるいは問題点を無視したり、目的の達成を目指さないことは処罰すると明言した。誰よりも早くネルラが理解したが、そのネルラでさえも何度も質問し、確認して理解したような状態であり、重臣たちはなかなか理解できず、訓練としてシミュレーションを繰り返すこととなった。
だが、ディアボロスにとっては、これは規模に沿った企業のような運営に変更したに過ぎなかった。地方政治として十分か、というと難しいところではあるが、人数を考えれば支障はなさそうであった。
ようやく理解が行き渡ったときにはもう昼をとうに過ぎており、さらにそこから「権限と責任」についての周知をディアボロス自らが行い、簡単なことと思えたこの運営方法の変更で一日が暮れていった。
「閣下、お疲れ様です」
ディアボロスが報告をまとめていると、明日以降の動き方について伝達して回っていたネルラが執務室に入ってきた。途中、家事に明け暮れていたアオカナとルシカに声をかけたようで、二人がそれに従っている。ティシャは既に学習を終えてディアボロスの近くに立っていた。
「やっと揃ったか」
ディアボロスはゴキゴキと首を鳴らして立ち上がる。アオカナが駆け寄り、ディアボロスが書いていたものを覗き込んだ。
「……これは、旦那様の国の言葉でごさいますか?」
質的に全く異なる文字の並びをみてアオカナが尋ねた。
「途中まではな。途中からは俺のいた世界の別の国の言葉だ」
ディエンタールとノイラルで文字自体はおおよそ共通で、ただ言葉自体は特に文法に違いがあるようだと感じている。それでも、まだ読めるようになるには至っていない。文字数が少なく、文字に対する読みの数が多い、というのが言語の特徴で、それに合わせて個々の文字の名前も長い。このことから少ない文字の並びのパターンで言葉を表現する、というのがなかなか覚えにくい。文字自体は直線的で単純な形をしている。だから識別は難しくなく、アルメニア文字のような識別困難性はないのだが、文字の並びから音を推測することが難しく、似たような文字並びの言葉が多いのが難しい。
一方、日本語を書いてみたところでこの世界の言葉がこうなっている理由を思い知った。ディアボロスに用意された紙は羊皮紙に似ているが、随分と厚みがあり、ペンは書くというより掘るに近い感覚である。結果、多くの線や曲線を持つ日本語を書くには全く適さず、単純な直線がなければ書きづらいのだ。諦めて途中から英語に切り替えたが、筆記具が文字に影響するというのは盲点だった。
「閣下のご差配、お見事でした。」
ネルラが称える。その言葉を奪いとるように、アオカナがディアボロスの手をとった。
「わたくしたちでは到底考えも及ばない方法で、新しい統治を知らしめたと伺っております。さすがは旦那様。わたくしはそのような旦那様にお仕えできて幸せでごさいます」
そのように言われるとディアボロスとしても面映いものだった。面白くなさそうに眺めているルシカのこともいささか気になったが、ディアボロスはとりあえず首を振ってその賛辞を否定した。
「元の世界の知識を持ち込んだだけだ。俺が何か偉大なことをしたわけでは――」
「いいえ」
ディアボロスの言葉を遮って、ネルラが口を開いた。
「そんなことはありません。私は閣下をこの国の兵器とするためにお呼びしたわけではありません。この世界にはない叡智、そして閣下が聡明な方であると思ったからこそ、閣下をなんとしてもこの国にと進言したのです」
相変わらず自信たっぷりにいいながらディアボロスに歩みよる。なんとも照れくさい、とは思うのだが、ディアボロスとしてはそれ以上に聞き捨てならない言葉が含まれていた。
「……まて、そもそも俺をこの国に呼んだのはネルラだったのか?」
言われてネルラはきょとんとした。ぱちくり、ぱちくり。目をしばたたかせて、問いかける。
「言っていませんでしたか? 私がノイラル公に進言申し上げ、それを受けてノイラル公よりいかなる条件を受諾してでも引き入れるように申し使って、ディエンタールへと向かったのですが」
「聞いていない。俺はネルラはノイラル公に命じられて身を捧げたものだと理解している」
その言葉をきいてネルラはさらに一歩、二歩と近づき、そのままディアボロスに抱きついた。
「そんなことはありません。第一、そのようなことで身も心も捧げるほど安い身ではないと思っています。私がディアボロス様を是非に、と思ったからこそ、私がディエンタールに伺ったのです」
それは想像だにしないことであった。ルシカが望んでディアボロスの寵愛を受けていることは、さすがにディアボロスとてこう何度もルシカに訴えかけられれば理解できるというものだが、状況的にはアオカナもティシャも、そうせざるを得なかったからディアボロスと共にいるようなものであるし、ネルラに至っては任務として、そして貢物としてディアボロスといるようなものである。それを考えれば女たちの意思などないも同然で、いっそ意思も人格も無視して蹂躙したほうが人思いなくらいであるとすら思っていた。
愛情や思慕を口にすることはいとも容易いことで、ディアボロスはそれを無邪気に信じる気にはなれなかった。だが、ネルラの言葉を信じるならば、少なくともネルラは自分の意思でディアボロスに抱かれ、傅くことを選んだことになる。もちろんそれは恋愛などというものではないが、ネルラの選んだ道だと言うのだ。
ならば、それならば。
ディアボロスの暴虐によって身を寄せることとなったルシカとアオカナ。生きる術を失ってやむなくディアボロスを頼ったティシャ。未だ見ぬディアボロスを信じてその身を賭したネルラ。彼女らの信に応える者になるべきではないか――
少なくとも、彼女らはディアボロスのことを信じているのだ。どう信じているのか、といえば難しいが、少なくともディアボロスがただ欲望のままに行き、気まぐれに陵辱し、八つ当たりで首を撥ねるような人部だと思っていれば誰もがもっと恐れるだろう。頼ることなどできないまま、ただ媚びるばかりになるはずだ。
だが、彼女らの言葉を、行動を、ただの媚と呼ぶことはディアボロスの心が許さなかった。
何を思っているのかは分からない。ディアボロスをどう捉えているのかはわからない。だが、「何を望んでいるのか」はいくらかわかりやすい。
ルシカは愛されたがっている。これが確固たるものであり、揺るぎない寵愛を欲している。愛に飢えた出自が、体ではなく心を求められることを望んでやまないのだろう。
アオカナは力と寄り添えることだ。自信に美貌と妖艶さなど、女として備わる強大な力を持ち、力ある者を跪かせてきたアオカナは相手の価値を値踏みする傾向がある。故により確固たる力を求めるのだが、ただ虚栄心に満ちていたり打算的であるわけではなく、一方でか弱いロマンチストだ。打算のためでなく尽くしたがりで、打算によってではなく寄りかかれる相手を欲し、時には甘やかされることすら望む。
ティシャは安寧だ。元が親がなく、貧しく不安定な暮らしをしていたティシャはその儚い居場所さえ奪われたとき、力あるディアボロスを頼った。そして今は、「ディアボロスの側」という場所に依存しているのだ。
ネルラは優秀さだ。自身がとても優秀なネルラは、ディアボロスに「優れた指導者」であることを望んでいる。同時に、ディアボロスが素晴らしい人物であることもまた望んでいる。それは、怠惰や欠落を嫌っているわけではない。ディアボロスが怠惰であれ、好色であれ、ネルラはむしろ甘やかすほどに支えてくれる。だが、不誠実であればどうだろうか。
そして――民は、ディアボロスが文明を、平和を、豊かさをもたらすものとして信じて疑わない。彼らにとってはディアボロスはいわば救世主なのだ。
「ネルラ」
ディアボロスはディアボロスを優しく抱擁するネルラの頭を、その大きな手で撫でた。
「いや……ルシカ。アオカナ。そしてティシャも」
ディアボロスは女たちを順に見ながら呼んだ。今の流れから呼ばれることを予期していなかったのだろう。三人は少し驚きつつ慌てて向き直った。
「俺はお前たちの全てを貰い受ける。その体も。その心も。あるいは未来のすべてもだ」
はっきりと、ディアボロスはこの場で宣言した。
「俺は、お前たちを幸せにしたい」
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