分かれ道
分かれ道(1)
マリーの亡骸の側でディアボロスは泣いた。何も憚ることなく泣き続けた。やがて悪魔が全て打ち倒され、アオカナとルシカが戻ってもなお泣き続けた。もうとうに日は暮れていた。
三人はひとまず雨風の凌げそうな場所で夜を過ごした。娼館へ行くことも考えたが、もし悲惨なことになっていたらと考えるとふたりの気持ちを思いディアボロスは思いとどまった。ディアボロスの体は、元の大きさに戻っていた。
朝になってもなかなか動き出せなかった。ディアボロスにとってはこの世界ではじめての、マリーが側にいない朝だった。
アオカナ、ルシカにとってもマリーの喪失はひどく辛いことであるのを見せていたが、ディアボロスを責めることはなかった。ふたりはマリーを失った経緯を話した。マリーが避難を勧め、危険を嫌ったアオカナがそれに反対した。結局はマリーに従うことになったが、最後に逃げようとしたマリーが潰れた宿から逃げ遅れた。
「わたくしがいけないのです……旦那様、どうぞわたくしを処断くださいませ……」
悲嘆に暮れるディアボロスを見てアオカナはそう言った。だが、
「アオカナは悪くない。悪いのは俺だ……」
ディアボロスはそうつぶやき、手の中にあるマリーが身につけていたペンダントを見つめていた。
ディアボロスの心痛が、ふたりには辛かった。外から見れば二人は生贄である。特に、王から直接に命じられ、最初に側にいて、拒み続けたにもかかわらずディアボロスのものとなったマリーはそうだろう。
ふたりもまた、ディアボロスのものになるということは、一方的な支配であり、身も心も捧げる義務を負っているだけで、ディアボロス自身はさしたる感傷も持ってはいないと思っていたのだ。珍しいことではない。嫁入りとは、割とそういうものでもあった。
だが実際はどうだ。ディアボロスは抜け殻のようにペンダントを見つめ、飲まず食わずである。ふたりがいくら話しかけても、気遣うような素振りを見せるだけで、まるで覇気がない。
なんとか食料と水を調達しようとしたが、もはや街は街ではなくなっており、水も死体に溢れた街の中にある水が安全だとは思えなかった。仕方なく、ふたりは半壊し、命の気配を失った建物から拝借した。
三日目の昼、三人の下に騎士が訪れた。王が呼んでいるという。アオカナは、ディアボロスが辛いのであれば行かずとも良いのではないかと言ったが、ディアボロスはマリーのことを報告しなければならないと立ち上がった。アオカナもルシカも、当然のようにそれに続いた。
「リクリエはどうした」
ディアボロスは騎士に問いかけた。
「…魔族との戦いにおいて勇敢に立ち向かわれ、戦死されました」
長い沈黙のあと、ディアボロスは「そうか」と呟いた。
王は玉座にいた。
「ディアボロス殿…」
その表情は疲弊しきっており、生気がなかった。
「先の戦闘における活躍、生き残った兵より聞き及んでおる。よくぞやってくれた。そして、魔族のものどもより街を守ってくれたこともまた、感謝しておる」
淡々と話す言葉には力がなかった。
「王よ。話が、ある…」
ディアボロスは、マリーの死について語った。そして、それが自分の責であるとも。
「そうか…………」
長い沈黙のあと、王は頭を振った。
「ディアボロス殿に責はない。ディアボロス殿が守らなければ、この国の誰も生き残ってはおるまい」
長いため息。重苦しい空気であった。
「だが、申し訳ない。もはやこの国に、ディアボロス殿の要望に応える力はない。その獅子奮迅の活躍に応えることもできず、本当に、本当に、申し訳ない……」
ディアボロスは黙っていた。なんと応じるべきか、頭に浮かばなかった。
「では、ディアボロス様はこちらで引き受けてもよろしいでしょうか」
突如として女の声がした。顔を突き合わせて沈んでいた一同はその存在に気づいていなかった。視線が集まる。
「ネルラ…」
それは、夜の宿に現れた、白金の髪を持つ異国の女だった。
「貴殿は…」
「私はノイラル公国、公室つき内政騎士、ネルラ・フロン・アンティウムです。当然のご無礼、失礼致します」
ディエンタール王の問いかけにネルラは恭しく膝をつく。目を細めた王は、心なしか力が戻ったようであった。
「なるほど。貴殿が例のノイラル公国の…」
どうやって入ったのか、とディアボロスは思ったが、考えれば既に城壁すらなく、警備と呼べるようなものもなくなっているので不思議はなかった。それに、手続きを踏んで入ろうにも、もはや声をかけるべき衛兵もいないのだ。
ネルラはいつものように堂々として、どこか超然としているようであった。だが、ディアボロスはほんの少し、その強張った頬を認めた。
「我々に引き止める材料は何もない。ディアボロス殿次第だ」
溜息とともに王はそう答えた。この状況に対して動揺した様子はなく、深い思慮の末に詰みを再確認した、という様子であった。
「……考えさせてくれ」
ディアボロスは、そう言うのが精一杯だった。
沈黙と重苦しい空気に包まれた謁見の間を辞して、一行はディアボロスのために用意していたという館に向かった。まだ用意はできていない、と言っていたが、十分に過ごせそうな大きく、豪華な館であった。
「ネルラが来た、ということはもう条件が揃ったということか?」
そう問いかけたディアボロスの手に、ネルラはそっと手を重ねた。
「私の前で、お辛い気持ちを押し殺そうとする必要はありません。私は、あなたの味方、あなたのものですから」
そう言って微笑みかけた。不意のことに、ディアボロスはまた涙を溢れさせそうになった。
「条件については、ほぼ。状況を察して飛んでまいりましたので、万全にというわけではありませんが、まだ至らない部分でも、納得していただける程度には進んでおります」
自信たっぷりであった。ネルラがそういう人物なのだとも感じたが、それだけでなくノイラル公国がそれほどの機動力をもった国であるということなのだろう。それはとても好ましかった。
「俺にとっては、ネルラについていくのにまずい理由はなにもない。だが……それは、この国を見捨てることになる」
街の形も失い、生命の気配がないほどに虐殺され、城も廃墟となり、もはや復興など可能かどうかは怪しいものだが、それでももはや風前の灯火の国であれディアボロスがいれば侵攻は防げる。それだけの力がある。だが、いなくなればこの国は生き残れない。だが、
「ご安心ください。それについてはディアボロス様が来られるのであれば、追って当国より同盟の提案を行う手筈となっております」
もはや恐ろしく感じるまでの優秀さだった。
「もはや否はないな。出立は…」
「今日はやめたほうがよいでしょう。そちらの女性方もお疲れのようですし、一日を争うことではありません」
「そうだな…」
ネルラの配慮と提案は完璧であるようにディアボロスは思った。否定する余地はない。考える頭を損ねた今、しっかりと考えて提案され、承認するだけで良いというのは歓迎するところであった。
こんな時ではあるが、またしても「支える」という立場を取られてしまったアオカナがいささか膨れていたことを、ディアボロスは完全に見逃していた。
街に買い物に出ると、この国の現状を改めて痛感した。
建物は壊され、そこらじゅうに死体が転がる。広場にすら人の気配はない。むしろ、生きている者はいるのだろうかと思う状態であった。そしてこの状態では疫病の恐れもあった。
「埋葬してやりたいが、途方もない話だ」
ディアボロスはそう呟いた。骸は老若男女問わず、ただ殺したというだけではない無残な姿で転がっていた。悪魔には人間に対する憎悪でもあるのだろうか。引き裂き、食いちぎられ転がった骸を壁に塗りつけといった様は、よほどの憎悪か、もしくは悪趣味の塊に見えた。
それを眺めながら思案していると、ディアボロスに向かって走ってくる小さな影があった。ディアボロスが助けた少女である。
「あっ、あのっ…」
息を切らしながら喋ろうとする少女は咳き込んでしまった。そんな様子を見てディアボロスが認識したときには、ルシカがその背中をさすっていた。
「大丈夫、落ち着いてから話そ?」
そんな風に話しかけるルシカの姿は、ディアボロスにはやや意外に映った。ルシカはあまり社交性がなく、相手が屈強であるか否かによらず小心で消極的、というイメージを持っていたのだ。だが、そんなことはなく、少女が咳き込んだのを見て素早くしゃがみこんで背中をさすった。そんな驚きをもってルシカを眺めていると、息を整えた少女はおずおずと切り出した。
「この国を出ていくって、ほんと…?」
誰に聞いたのだ、とディアボロスは問い詰めたくなったが、ぐっとこらえ、
「そうだ」
とだけ答えた。少女は顔をしかめ黙り込んだが、やがて意を決したようにディアボロスの服を掴んでこう言った。
「あたしも、つれてってくださいっ」
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