夢うつつの畔(2)
ディアボロスがマリーから魔術について聞いて感じたのは、過剰なまでの制約の厳しさだった。呪文詠唱がその成否に影響するため、詠唱速度のコントロールの余地が少ない。その上、発動は形式が完成すると直ちにであるため、魔術式を開始した時点で発動タイミングは固定されてしまう。さらに、術者は魔法陣の中心にいなければ魔法陣が成り立たなくなるため魔術の完成まで術者は動くことができない。魔術の射程は術にもよるがそれほど長くなく、相手の感知範囲外からの攻撃というのは考えにくい。そのため、戦闘では長時間に渡り戦線を維持しなければならず、優勢であれば発動させるまでもないし、劣勢であれば魔術の発動に失敗する可能性が高い。
このことから魔術の戦闘は主に攻城戦において活用されるようであった。
そして、そのような性質であることから日常的な理由というのはあまり考えられないようだった。数少ない術者が時間と労力をかける必要があり、しかも発動のタイミングは固定され、効果はその場に限られる。
なにより、「無から有を生み出す」類のものだから、とてつもないものであることは間違いないのだが、「凄ければ有用である」ということは事実ないのだ。その凄さが有用である部分は全くないわけではないのだが、実際には空気中から水分を取り出すことができるくらいのほうがずっと有用である。
だから、動力にする、というようなことは考えられないし、明かりも魔術的な方法ではなくオイルランプが使われているわけだ。電球はトーマス・エジソンが実用化したのだったか。同じように歴史をたどるとすれば、ここから四百年は未来の話になる。電気の実用化自体が二、三百年は先の話になる。
この世界でどれほど生きるのかはわからないが、ただ知識だけで文明をもたらすのは困難であることを確認するばかりだった。
マリーはこの巨人のあまりにも意外な振る舞いに、困惑と、恐れと、安堵と、少しの喜びを感じていた。
マリーが当初ディアボロスに対したときには、ただただ恐ろしかった。この世のものとは思えない音とともに城が揺れ、侍女たちはパニックになって泣き叫んだ。騎士が、塔で召喚した悪魔が暴れていると報告したときには、取り乱すあまり他の侍女に襲いかかる者や、城から飛び降りた者もいた。
実際に目の当たりにすると、その巨人は神々しくも禍々しく、いつも自信と歓びに満ち溢れた王が絶望と葛藤に沈んでいることもまた、この世界の終焉を感じさせた。
説明を受けたときにその印象は大きく変わった。力だけを持ち、欲望に忠実で、挟持を持たない下卑た乱暴者としか思えなくなった。そのような乱暴者に慰みものにされるのだと思うと、いままで日々尽くしてきたことがどれほど愚かだったと感じられ、自分を身を投げるべきだったと嘆きさえした。
だが、その印象は一日と経たず覆された。ディアボロスは日頃、思索に沈んでいることが多い。それは、城で魔術師や賢者たちが見せる表情に似ていた。魔術師たちは何事かを考えていることが多く、会話も上の空で噛み合わないものが多い。一言でいえば変わり者が多いのだ。しかも、深刻に考え込んでいたかと思えば、突如ニヤニヤと笑いだし、ふさぎ込んでいたかと思えば突如走り出したりもする。そうしたことから、場内では魔術師が「何を考えているかわからず、不気味だ」と言う者が多い。
だが、マリーはそのようには感じていなかった。彼らは考えることで前に進んでいるのだ。何も見えなければふさぎ込み、何かを見つければ喜ぶ。そうした情熱と探究心を内に秘めているのだと感じると、微笑ましく、頼もしかった。
賢者たちはいつもしかめっ面で難しいことを考えていることが多い。楽しんでいるという感じのする魔術師たちとは違い、どちらかといえば戦争のことを話す兵士たちに通じるものを感じていた。彼らは考えることによって戦っているのだ。
そしてディアボロスの印象は、それらの両方を混ぜ合わせたようなものだった。
いつも難しい顔で考え込んでいるのだが、必死に戦っているというよりは面白がっているように感じられた。そして、そこには賢者たちすらも及びもつかない、崇高な叡智を弄んでいるのだということが感じられた。この人は本当に神なのかもしれない――そう思うことも少なくなかった。
そんな中、昨日はディアボロスに対する感情が揺れ動き、大変であった。朝は失望したし、そういう下卑た者であったということを思い出しうんざりもした。城に戻れば、真剣にマリーを生贄にすることが検討され、ディアボロスに慰みものにされることを想像すると恐怖と悲しさでいっぱいになり、泣きながら他に方法を考えてほしいと訴えることになった。
そこまで必死な思いをして精神を疲弊しきった状態でようやく帰ったが、今度はディアボロスが不在であった。どこにいるのか、何をしているのかと考えると恐ろしくなった。別にマリーは監視を言いつけられているわけではないが、ディアボロスがどこに行こうが大事になることは容易に想像できた。
さらに、待つしかないというリクリエとは言い争いになり、こんなにも疲弊しているにもかかわらずさらなる災いをもたらすディアボロスを心から恨んだ。表に出さないようにはしたが、夕には相当憤慨していたのだ。
そこへ、夜には襲撃である。王との交渉によって今があることを思えば当然だったのだが、ディアボロスは横暴に振る舞う印象であり、交渉をするようなタイプであるというイメージがなかった。だが、ディアボロスは交渉した。そして、その交渉の内容は、その意味がマリーには全くわからないものであった。見間違えることのない巨大なディアボロスが、全く違う人物であるかのように見えた。それは悪魔のようでもあったが、それ以上に、したたかに利益を求める、為政者の姿だった。
そして、ディアボロスがこの国から出ていく、ということは考えたこともなかった。考えていたのは、ディアボロスがこの国の守護者として君臨する世界か、ディアボロスがこの国をしゃぶりつくし、滅ぼした未来のどちらかだけであった。国王としては、ディアボロスが去る、ということはもはや手に負えない存在であるディアボロスを抱える必要がないことを意味し、良いことであるはずだが、ひどい裏切りであるように思えた。
それがとても理不尽な感情であると自覚していたから一度は封じ込めたのだが、今度はディアボロスが他国に渡り、そして「守護者として君臨する世界」に至ったらどうなるかということを考えて恐ろしくなった。
ディエンタール国王とノイラル公国との関係は、つかず離れずといったところだ。遠くはないが隣接してもいないノイラル公国とはあまり国交がないというのが実情ではあるのだが、鉱物資源が豊富なノイラル公国との貿易はなくてはならないものでもある。しかもノイラル公国は単に資源国というだけではなく、加工技術も優れ、様々な武器や工具も輸入している。一方、ノイラル公国は北方にあり、周囲に動物が少ないことから、家畜や毛皮などをディエンタール王国から輸入している。こうした、普通の貿易相手であるが、最大のというわけでもない。
両国の間で戦争になったことはない。最大の理由は、間にあるのが大国ミュットランダル帝国であるというのが大きな要因だろう。そもそも、ノイラル公国はミュットランダル帝国から諸侯がまとめて割り当てられた土地によって独立したものだ。内戦に至るほどではなかったが目障りな存在となっていた一派を北方の辺境に押し込めた、という意味もあり、ノイラル公国とミュットランダル帝国の仲は冷めたものだと言われている。だが、ノイラル公国を統治する諸侯はそもそもミュットランダル帝国でも影響力があり、帝国としてもそれに依存している部分がある。そうした複雑な関係ではあるものの、「冷めてはいるが密な関係」といえ、ディエンタール王国としてはもし侵攻する場合は帝国との戦争が避けられない。
一方、ノイラル公国としても帝国の頭越しに戦争をするわけにはいかないからディエンタール王国に対する戦争行為は過去なかった。
だが、だからディアボロスがノイラル公国に行ったとしても安心だという話にはならない。ディエンタール王国とミュットランダル帝国の間にはいささか緊張感があるのだ。両国もまた隣接しているわけではないから即座に戦争という事態にはならないが、歴史的にみれば両国の間で戦争はあったし、その巻き添えになって消えた国もある。
つまり、ディアボロスがノイラル公国に行ってしまうと、ノイラル公国とミュットランダル帝国が手を組んで支配権を広げる、あるいはノイラル公国がミュットランダル帝国に反旗を翻して侵攻を始める、という可能性も考えられた。
ディアボロスが何を考えているのか、この国を憎んでいるのか…考えれば考えるほどに恐ろしく、どうすればいいのかと思い悩んだ。
しかし元より交渉をするようなタイプであると見えていなかったこともあり、まだマリーにはディアボロスがそこまで深く考えた上で行動しているとは考えられなかった。だから、今日はさぞ浮かれた様子ではじまるのだろうと思っていたのだ。
ところが実際には朝から何事かを考えており、口を開いたかと思えば魔術のことなど尋ねる。気まぐれかと思いきや、城内に魔術に関する書庫はあるか、魔術師に話を聞くことはできないかと実に真剣である。
この巨人が一体何を考えているのか。空恐ろしくもあり、頼もしくもあり、マリーは心をどこに置けばいいのかわからなくなっていた。
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