夢うつつの畔
夢うつつの畔(1)
ディアボロスがこの世界にきて四日目の朝がきた。ようやく女が抱けるということでディアボロスは朝から上機嫌であった。
「昨日あんなことがあったのに、ディアボロス様は大した方です」
マリーが思い切り呆れながら言った。
「他言無用といったはずだぞ」
「…余人のいないときも憚りますか?」
マリーは眉をひそめて問うた。どうだろうか。別にやましいとか、聞かれるのがまずいと考えているわけではない。だが、口にすれば聴かれて問題になる可能性は、決して低くはない。
「この国を滅ぼしたくないのならば、誰にも聞かせるべきではない。そして、どう思っているか予め俺が誰かに伝えることはない」
しばらくの沈黙ののち、ディアボロスははっきりと言った。
「…承知しました」
マリーは恭しく頷く。手にはハーブティのポット。マリーは毎朝違うハーブティを淹れてくれているのだが、ディアボロスの感想はいずれも「おいしいにはほど遠い」であった。なるべく表には出さないようにしているが、食べ物も飲み物も、どれをとっても基本的にはあまりおいしくはない。肉類に関しては悪くないが、良い調味料がないためやや味気ない。作物に関しては、総じて味もよくないが、それ以上に食べにくい。ディアボロスはその気になれば芯だろうが骨だろうが、たやすく噛み砕くことができるが、それはさらに味を犠牲にすることになる。
目下、戦闘においてはディアボロスに驚異はないと言える。だが、暮らしという意味では、不衛生で、臭気もひどく、ベッドは固く、食べ物はまずい。力があって言葉が通じるだけではやっていけない世界だ、というのを、のしかかる疲れと共に感じていた。
(女も重要ではあるが)
楽しみと性欲発散という意味で、ディアボロスは当初から女を要求したが、実際のところ生活水準の向上のほうが優先度は高いかもしれない。このままずっとこの世界にいられるかと言えば、自信がないほどうんざりしていた。ネルラにあるような要求をしたはいいが、どうしたらこの世界の生活水準を向上させられるかについて具体的な計画があるわけではない。いくらか元の世界の知識が残っているとはいえ、例えディアボロスに全ての元の世界の記憶があったとしても自分ひとりで文明を発達させられるほど万事に知悉していたわけではないのだ。
そもそも文明の発達が円環であるということはディアボロスも理解していた。だから正攻法では時間がかかる。そのような発明による改善を省略しうる要素は、少なくとも元の世界にないものである必要があった。
「マリー、聞きたいことがある」
ディアボロスがベッドを椅子にして腰掛け、カップをつまみながら口を開いた。
「マリーは魔術について詳しいか?」
「まぁ…」
マリーは目を丸くして硬直した。
「ん?魔術に関することは禁忌であったりするのか?」
「いえ、そのようなことは…」
「ではどうした…」
「いえ、その…」
マリーは非常に気まずそうに言いよどんだ。よほど言いにくいことなのだろうか。
「別に怒りはしない。正直に言ってみろ」
それでもマリーは散々逡巡した後に口を開いた。
「ディアボロス様は娼婦のことで頭がいっぱいなのだとばかり…」
今度はディアボロスが何を言われたのか理解できず、硬直した。
「マリーは俺を馬鹿だと思っているのか…?」
「いえ、そのようなことは…むしろわたしどもには到底及びもつかない知識を備えておいでで、城の賢者ですらも敵わない方だと理解しております」
おべっかという様子はなかった。確かに元の世界で普通に勉学に励んでいればこの世界でははるか未来に得られる叡智を手にしていることになるだろう。
(巨人の肩に乗る、か…)
アイザック・ニュートンの名は記憶にあった。これは知性に関する話だ。未知のことを見つけるのは難しい。だが、同じ知識であっても既知のものであれば獲得は容易だ。未知のものを知るには途方もない時間が必要であり、人類にはあまりにも長過ぎる。だからこそ叡智は継承され、少しずつ、少しずつ真理に近づいていく。
(知性に限らないな)
工業もまた、工業の成果によってそれを利用するものが一歩進む。そして、それが一歩進んだ結果が巡り巡ってそのきっかけとなったものをまた一歩進めることになる。元の世界の「現代」と比べ「中世」が劣っているというのは単にその時代の人類が愚かだったからではない。果てしない積み重ねの先に少しずつ進歩してきたのだ。
「もちろん、わたしは魔術師ではありませんから魔術に詳しいわけではありません。ただ、ディアボロス様の世界には魔術がない…というお話でしたし、わたしも城下の市民よりいくらか詳しい程度ではありますが、お役に立てることもあるかもしれません」
マリーの口調は探り探りという感じではあったが、正確に伝えていた。
「ならば聞きたい。まず、魔術とはどういうものだ?」
「どういうもの、ですか…」
ディアボロスは、問いかけがあまりにも不明瞭だったかと思ったが、マリーは言うべきことをまとめているようだったので、黙って待った。
「この世界の根源たる力の行使である、と言われています。この世界の中にあるというよりも、この世界は魔術の元になる力があるからこそ存在できるのだ、ということです」
「ふむ…?」
「人間がその力の媒介となることでこの世界にその力を持ってくることができると。ただ、それには複雑な条件が必要になります。呪文の詠唱、魔法陣の構築などもその一部です」
「複雑な条件?単純に魔力があれば呪文と魔法陣によって発現できるということではないのか?」
「魔力…とはなんですか?」
ディアボロスは、もはや自分のイメージがあまり正しくないことは気づいていたが、発した以上は自分の世界の、ゲームの中の知識で答える。
「魔術を行使するためのその人間の内にある力のことだ」
「えっと……魔術はその人の内から出てくるわけではなく、根源たる力の泉から持ってきますから、人間には特別な力があるわけではありません。むしろ、人間は条件を揃えるためだけの存在なので、魔族や、動物でも使えますし」
「そうなると、特に個人個人で魔術の力の差は出ないのか?」
「いいえ。条件がかなり個人によるのでとても差はでます。例えば、魔法陣は同じものを描いても同じ結果にならないんです」
「…なぜ?」
「わかりません。ただ、魔法陣はそれを誰が書くかによって少しずつ違うものが必要です。しかも、魔法陣をどれだけ綺麗に書くかということは魔術の大きさに直結します。それに、呪文をどんなふうに唱えるかによっても変わりますし、人間が魔術を持ってくる道の一部になるので、道として優秀でないと大きな力が持ってこれないのです」
確かに複雑な条件だ、とディアボロスは思った。魔法陣が一様でない、となると教育も成り立ちづらい。
「魔術師というのは稀なのか?」
「…百はおりませんね。塔の件がある前ですが…」
ディアボロスとの戦闘で、この国が想像以上に甚大な被害を受け、戦力を失ったことをディアボロスは感じた。いくらか申し訳なくもあるが、ディアボロスとしては王が必死になる状況であるほうが望ましいし、弱みを握っていると言っていいだろう。
「魔術の最大威力というとどの程度のものだ?」
「数日に渡って複数の魔術師が引き継ぐものであれば、山を削る、と言われております。数発打つことができれば、城を粉砕できるそうです」
フィクションとしては山などまるごと吹き飛ばすものというイメージがあるが、実際のところそれはミサイルとして考えても十分すぎる威力ではないだろうか。マスケット銃すらないこの世界では規格外といっていい威力だ。ディアボロスは魔術が一撃必勝の大技であるという認識を強めた。
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