濁流

濁流(1)

フォランタ公から話を聞いてからも、ディアボロスがすぐに都に発つことはなかった。最大の理由は、ネルラである。

ノイラル公に謁見するのであれば当然、ノイラル公直属の家臣であったネルラを連れてゆくほうが良い。ところが、領内のことを最も理解しているのもネルラであり、ディアボロスもネルラもいない状態では統治がガタガタになってしまう。そのために、ネルラを連れてゆくことも、連れてゆかないこともできず、領内に留まるほかなかったのである。

しかしいずれ謁見に向かわねばならないことに変わりはない。故にディアボロスは統治システムの構築に力を注いだ。

局所的に見れば既に個々がすべきことは明らかであり、いちいちディアボロスが指示を出すまでもない状態であった。しかしながら、それぞれが何を目標としているのかを理解した上で自主的に動いているわけではなく、これまで「その日限り」だった命令をもう少し長いものに変えただけの話で、ディアボロスの命令の意味するところを理解するには及んでいなかった。

だが、それはゴールの見えている戦いであった。ディアボロスは重臣に、ただ任務を理解遂行させるだけでなく、ディアボロスの考え、そして戦略などを細かく説明し、理解を求めた。腹に抱えたものは話すとしても限られた側近だけというのが当たり前の中、未来のことまで明確にするディアボロスのやり方はまた驚かれた。

ディアボロスが出発を決めたのは、フォランタ公の来訪から三週間が経った頃であった。


ディアボロスはメンバーに騎士、馬丁、侍従の他にはネルラだけを同行させた。ディアボロスは留守を守る女のため、騎士の中で特に信頼できる者たちを城に残し、少人数で都に向かうことにした。

馬車旅であり、ディアボロスが乗ることを想定して予め大きな馬車を用意したことから道中はディアボロスが不安になるほどに平和であった。


都を前にした夜、ディアボロスは宿を抜け出していた。

旅は至って順調であり、明日には都につくことだろう。そもそも危険いえば盗賊やモンスターといったところなのだが、ディアボロスにとってはその程度なんら障壁でなく、そもそもそんなにいつも危険にさらされるような状況であれば商業が成り立たない。道中平和であることは当たり前といえば当たり前であった。

この世界でも星が輝いている。

ディアボロスはもとより星を見る趣味があったという気はまるでしないのだが、少なくともこの世界に来てからの日々が星を見ようという気持ちにさせないものであったのは確かだ。それ以前に、夜に出歩く者などまずおらず、星を見る機会自体がなかったかもしれない。

元の世界がどんな空をしていたか、思い出すことはできないが、郷愁を感じないのだからまるで違うのか、完全に忘れているのか、あるいは元の世界で星を意識したことなどなかったのだろう。ただ、元の世界にも同じように瞬く星々があったことだけは確かであった。

「いかがされましたか?」

不意に声がかかった。ディアボロスはその声の主を確かめることなく、そのまま星を眺めた。

「星を眺めることがそう多いわけではありませんが、綺麗なものですね。閣下にはそのような趣味が?」

「いや…………」

だが、なんと答えるべきか思い浮かばず、そのまま星を眺めていた。

「シトラス領でも祭りでもなければあまり夜出歩くことはありません。治安が悪いわけではないのですが、やはり夜は何かと危険ですから。とはいえ、閣下がお好きなら、星を見る祭りを作るのもよいかもしれませんね」

ディアボロスは黙っていた。ネルラも、ディアボロスが不機嫌ではないことは分かっていた。

ディアボロスは領を発つ前に領名を「シトラス」とつけた。なぜミカン属の名を冠するべきだと思ったのかは自身にも全くわからなかったが、家の名前と問われて浮かぶのはそればかりだったのだ。

その気配はないが、いつかディアボロスが自身の名を思い出すこともくるだろうか。そうすればディアボロスと呼ばれることに違和感を覚えるのかもしれない。あるいは、家の名前はシトラスではないかもしれない。だが、その気配はなく、決断を遅らせることはできなかった。

「何か、悩まれているのですか?」

ディアボロスはなお沈黙した。無視したわけではなかった。

「わからない」

長い沈黙を経て、ディアボロスはそう答えた。今度はネルラが黙った。言葉がなかったのではなく、ディアボロスをただただ待った。

「俺は、元の世界を思い出せない」

ディアボロスが言葉を続けようとしているのを見て、ネルラは待った。だが、どれほど待っても言葉は続かず、やがてディアボロスは続きを口にするのを諦めた。

ネルラは問いかけようとして、やめた。「元の世界に戻りたいとお考えですか?」無意味だ。ディアボロスは思い出せないと言ったのだ。思い出せないのであれば知らないのと大差ない。知らない世界に戻りたいと考えることはない。ディアボロスがそのことで苦しむとしたら、戻りたいからではなく、思い出せないからなのだ。

それにネルラには、ディアボロスがこれほどまでに苦しんでいる理由はなんとなく察せられた。

ディアボロスがマリーを失った、ということはとても大きい。だからマリーのことを思って、というのも当然にあるだろう。しかしそれ以上に、ディアボロスは執拗なまでに戦闘を避けようとしていた。やむを得ずモンスターとの戦闘になった場合も、ディアボロスが一撃を振るえば終わるような局面で、入念にモンスターと隊を引き離し、その上でモンスターを捕獲して握りつぶすなど手間のかかる戦いを続けている。

当初、シトラスに着くまでにはディアボロスはただマリーを失った状況が傷となり、臆病になって戦えないという面も見えた。だが、今はそれよりも、ディアボロスが自身の戦闘が味方を巻き添えにする可能性が高いということを分かった上で、巻き添えにすることを恐れているようだった。ディアボロスが時折城を抜け出し、街を出て森の中で拳を振るっているのは、どの程度であれば巻き込まないかということを体に身に着けようとしているのだろう。だが、実際は力加減によって大きく変わってしまい、激しい戦闘になるほど巻き込まないようにするのは困難となる。領主としての意識が強まるほどに、ディアボロスは苦しんでいるようだった。

「私は、閣下の心痛をなくして差し上げることはできませんが……」

それでも、ネルラとて黙ってはいられなかった。

「私はいつでも閣下のお側にいます。閣下おひとりでシトラスの地を営み、守る必要などありません。閣下おひとりを戦わせるつもりもありません。例えどんな困難が引き裂こうとも、私は必ず閣下の元へ舞い戻ります」

ネルラの言葉にディアボロスは何も答えなかった。ただただ、沈黙と静寂が支配する時が流れた。

届かなかったのだろうか。ネルラがそう思いうつむいたとき、大きな手がネルラの肩を抱いた。

「俺は、ネルラが俺を見つけてくれてよかったと思っている」

ディアボロスはそれ以上は言わなかった。

「本当に、星が綺麗ですね」

「そうだな」

二人は眠くなるまで、夜空を眺めていた。

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