幕間 春雷
春雷(1)
劇的に何かが動き出すかのように感じられたノイラル公への謁見であったが、実際にはそのようなことはまるでなかった。あれ以来、タケルからは何ら接触はなく、ディアボロスはただ領地を守り、反映させることに勤しむ日々が続いた。
退屈と思えるほどに繰り返される平穏であったが、実のところそれはディアボロスにとって新たな日々でもあった。旅の途中、いくらか話すことはあっても自分の女たちとすら悠長に過ごす時間はなかったのだし、民との交流というのも今までになかったことであった。
当初、民はやはりディアボロスはその容貌から、いくらか恐れられもした。臣下は早々に見せたディアボロスの差配に感服し、非常に友好的な姿勢を見せていたが、穏やかで民思いのフォランタ公の後を継いだのが見るからに武闘派のディアボロスであったために困惑と恐怖が民の間にはいささか広がったのは否めなかった。
ディアボロスは急激に近代化を進めた。組織的な統治制度を構築したのは近代化の足がかりにするためであった。テクノロジーの進歩には段階が必要であり、ディアボロスには現状からテクノロジーを飛躍させるための知識はなかった。だが、幸いなことにシトラス領には国益を守護するためにあらゆる人材が保護されている。つまり、国の中でも粋といえる頭脳が集結しているのだ。ディアボロスは、彼らとも積極的に話をした。彼らに自分が知っている世界の知識を伝え、彼らの意見を取り入れた。従来以上に厚遇し、研究の自由を与えた。
開発されたテクノロジーを、ディアボロスはなによりも衛生と医療に費やした。ディアボロスはそれを徹底するため、不浄は悪であるという考えを宗教的なニュアンスを混ぜて流布した。ディアボロスが神であるということは、人々にとって容易に察せられるものであることもあり、この手法は非常に上手くいった。そして公衆衛生を実現するためには何よりも清潔な水が必要であった。ディアボロスは浄水技術の確立を最優先とした。さらに幸いなことに、シトラス領は東西を険しい山に囲まれており、領内に川が流れ込んでおり、湧き水を組むこともさして難しくない。北方にあるが故に水の供給変動が比較的安定してもいた。潤沢に水を使うことが難しくないのはディアボロスにとっては非常に幸いなことであった。
この世界にも医療技術は存在していたが、やはりいささか宗教的で誤った医療も少なくないようであった。そのため、医術という概念の定着もはかった。
こうした成果は目に見えたもので、病の平癒や健康の増進という形で全体的に暮らしが上向き、ディアボロスは民からの支持を獲得していった。
そして、熱機関と電球の発明に成功したことで、ディアボロスはもはや生ける伝説と言ってよいほどの名声を得た。
「寒くてやってられん」
帰るなりディアボロスはぼやいた。このぼやきはいつものものであり、誰より早く迎えるルシカには聞き慣れたものであった。科学者達との白熱した議論。ディアボロスの目下の目標は内燃機関の実用化であった。ディアボロスは2ストロークエンジンが最も簡単に実現できる内燃機関であると踏んでいた。構造が単純で、製造も容易だ。だが、問題は燃料であった。熱さえ得られれば良い外燃機関と違い、内燃機関を実現するためには燃料が必要になる。ディアボロスはこの世界で日常的に油脂が使われていることは確認できたが、内燃機関に使えるような液体燃料は発見できていなかった。石油精製となれば必要とされる技術が随分と上がってしまうし、そもそも石油があるかどうかがわからない。燃料要件の低いディーゼルエンジンも検討したが、ディーゼルエンジンの設計に関してはディアボロスの知識の範疇を越えていたし、たとえディーゼルエンジンが製造できたところで燃料がなかった。
内燃機関の実用化という夢にディアボロスは夢中になっていた。一方で戦闘訓練にも精を出し、女たちは「一緒にいられる時間が少ない」とぼやく有様であった。
「今日はいかがでしたか」
にこやかにルシカが聞く。
「ダメだった。試しに作ってみた模型はぽんっと情けない音を立てただけだ」
落胆をにじませるその声に反してディアボロスの顔は緩かった。それを見てルシカは笑った。
「ご主人さまは本当にお可愛い方です」
そう言ってルシカはディアボロスの腕に抱きついた。
「あっ!ルシカずるい!」
そんな声をあげて駆け寄るのはティシャであった。そのまま勢いをつけて抱きつく。甘えたがりでべったりのティシャは、相変わらず恋人というような甘さよりも姪かなにかのように感じることが多かった。
「お帰りになられたのですね」
声をかけたネルラは迎えたというよりはたまたま通りかかったという感じであった。
「ネルラはまだ仕事か?」
「はい。交易品のチェックをしなければなりませんので」
「すまない、俺も行こう」
「いえ、これさえ終われば今日の仕事はありませんし、先にお二人と戯れられていても」
ルシカとティシャは察し良くディアボロスの腕を離した。ディアボロスはそんな二人の頭を撫で、ネルラに近づいて耳元に口を寄せた。
「俺が行って早く終わればそれだけネルラといられる時間が増える。その方がいい」
ネルラはうつむいてしまったが、緩んだ頬はティシャにバッチリ見られていた。
季節をふたつほど越えてそれぞれの関係にも少し変化がもたらされていた。思えば、ここにきたときにはまだ何日という程度にしか一緒にいなかったのだから当然であった。それでもなお、ディアボロスは十日にも満たなかったマリーとの日々が重くのしかかっていたが、それぞれがいて当たり前になるほどの時間ではあった。
気弱でいつも発言を躊躇っていたルシカは随分積極的になったし、明るくもなった。そして、ディアボロスに対しては気安く話せるようになったし、女三人とも仲良くなった。
大きく変貌したのがティシャで、教えたことは二度と言わなくとも覚えているという特技を持ち、理解も早い。その圧倒的な理解力、記憶力と洞察力から、女たちの中で唯一人、ディアボロスと学者たちとの会話に加わることができる才媛振りを発揮した。そして、まだ子供のようだが、営みの中ではアオカナ以上の色っぽさを見せることもあり、底知れぬ逸材であることを思わせた。
アオカナはいくらか直情的なところを見せるようになり、いかにも裏のありそうな含みをもたせた振る舞いばかりではなく、怒ったり拗ねたりといった感情も見せるようになった。クールで、情緒に欠ける面もあったアオカナも、ディアボロス以外のことや機微に揺れるようになり、表情豊かになった。
ネルラはあまり変わらないかもしれない。だが、より気安くなったネルラは茶目っ気を見せるようになり、笑顔もかつてよりだいぶ柔らかくなった。
「アオカナはどうした?」
「セルオラと一緒に帝国の商人の相手をしてるよ。任せといて大丈夫だと思うの」
セルオラ、というのはフォランタ公から送られてきた増援人員の女騎士である。非常に鋭利な雰囲気を持ち、実際腕も立つので護衛としては相当に役立っている。
「後でアオカナも労ってやらなくてはな。さぁ、日が暮れる前に点検を済ませよう」
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