炎上
炎上(1)
ディアボロスの朝は相変わらず涼やかなマリーの声とお茶で始まった。アオカナとルシカはまだ眠っているのか、部屋の様子はわからない。
「起こして参りますね」
マリーがそう言って部屋を出ていく。そろそろこの狭い宿もなんとかしたいところだと考える。窮屈である上に、あのふたりといられないことがディアボロスにはとても不満だった。
ディアボロスは、こうした問題を解消するならばノイラルのほうが早いだろう、と考えていた。理由はやはりフットワークの軽さだ。あれほど速やかに行動を起こしたことを考えると、ノイラルにはだいぶ利がある。
気になるのはルシカの見解だ。この国にあるものがこの国でなければならないものではない、というのもそうだが、なんとなくこの国に不穏なものがあるように感じられた。初代国王が覇王であった、ということ自体はそれほど驚くべきことではないが、ディアボロスが破壊した塔は初代国王がこもっていたものである、ということはマリーから聞き及んでいる。なんのためにあの塔があり、あの塔で一体何をしていたのか。単身で攻城戦に勝利し、国を治めるほどの力とは一体なんなのか。そして、この国は一体何を隠しているのか。
少なくとも、塔において行われた時点で、ディアボロスの召喚そのものがその一端であることは間違いなかった。そして、それがディエンタール王国の切り札であることも含めて、この世界における外法のひとつであるということは明らかなのだ。もしそれが公知のものであれば切り札足りえないのだから。
(だが、現国王はそれを使いこなしていない)
話の限りでは、初代国王は自らがそれらの力、あるいは外法を駆使した可能性が高い。塔にこもっていたのが自身であることを考えても、初代国王自身が知悉していたのだろう。だが、国王は何ができるのか、あるいは何が起こるのかということをいまひとつ把握していないようである。あの国王はどちらかといえばお人好しであり、平時の良君といった印象である。街で見た限りでも、国王の評判は良い。ということは逆に言えば、何かを隠しているとしたら、この国であり、国王ではない。国王もまた、この国から真実を隠されている可能性が高いのだ。
(黒幕は誰だ?それとも、もはや誰にもわからないのか?)
初代国王だけが知っていた、という可能性も考えられた。むしろそちらのほうが本筋であるように思えたくらいだ。
(その場合、俺にとってそのことは埒外で良いのか…)
国王がこの国の秘密をディアボロスに隠し、それが脅威になるとすれば、看過できようはずもなく、敵とみなすという考え方はすぐに成り立った。では、現国王は何も知らず、この国の成り立ちには重大な秘密があるとしたらどうか。誰かがディアボロスに悪意を向けているわけではない。だが、重大な何かに加担する可能性があり、また一方で強大な何かに巻き込まれる可能性もある。
(少なくとも、アオカナやルシカを失うのは惜しい…)
マリーは自分のものではないが、アオカナやルシカのような魅力的な人物がそうそういるとは思えず、なにかに巻き込まれることで彼女たちを失うことは避けたい、とディアボロスは思った。
どうやらこの国のことを調べる必要がありそうだ、と思うのだが、その手段は難しいところであった。
朝食を終えて、一行は広場にきていた。理由は、四人で話すには宿が狭すぎるためだ。できることなら大きな公園のようなものがあれば良いのにと思ったりもするが、そのようなものはなかった。歴史的に、もっと後の時代にならなければ登場しない概念なのかもしれない。
「リクリエが、それほど広くはないものの屋敷をひとつ買い取ったので目処は立っているということを言っていましたよ」
体の大きなディアボロスのために、マリーは少し前を歩き、足元を注意し、人だかりなどには注意を促していく。もうすっかり慣れたもので、自然な振る舞いであった。
「マリー様はまるで奥様のようでございますね。わたくしの出番がなくなってしまいそうです」
アオカナが不満げに言った。だが、そんなアオカナも既にディアボロスには見えづらい小さな子どもが寄ってきたときなどに注意を促しており、ふたりの気遣いは似たようなものであった。
「しかしくどいようだが、ゆっくり話もできないというのは困りものだ。宿は狭いし路も狭いし、広場も狭い。息が詰まるようだ」
「ディアボロス様の国ではどの方もディアボロス様のように大きい方ばかりなのでしょうか」
ディアボロスのぼやきを聞いてルシカが問いかける。
「いや、そんなことはないはずだ。俺は別に体躯の大きいほうではなかったはずだし、このように狭くはなかった」
その答えをきいてアオカナが首を傾げた。
「それでしたらむしろ、巨人の国という印象が致しますが…」
「ふむ…?」
「旦那様だけが大きいのでしたら、周りは小さく見え、小さな国のように映るのございましょうが、誰もが大きければ家も調度品もまた大きいはず。ディアボロス様が特別大きく感じられなくとも不思議はございません」
「なるほど…あ、いや、」
ディアボロスは納得しかかったが、かぶりを振った。
「確かに、この世界と元の世界で同じものがなければ大きさは比べられない。りんごは、元の世界にもあったが、それが同じものだとは限らない。だから、俺が大きいのではなく、この世界の人々が小さいのかもしれない。それは確かだが、そもそも俺の体は元の世界と同じものではない。だから、俺自身が元の世界の大きさと比べる指標にならないのだ」
そもそもこの世界にはメートル原器がないし、キログラム原器もまたない。大きさ、重さに関して両方わからないのでは、比較可能な形で測る方法がない。もしかしたらあるのかもしれないが、少なくともディアボロスの知識の中にはなかった。
「距離や重さが相対値だということは、いままで考えたことがなかったな…」
同じだと思えるものはある。水だ。だが、この世界の水と元の世界の水が同一のものだと保証する方法がない。まして、光を計測する機器などあるはずもない。さらにいえば、魔術が存在するこの世界で物理法則が同一であることを保証することもできない。この世界の大きさと重さは、元の世界の大きさと重さと比較できないのだ。
「うぉぉぉ、俺は理系じゃないんだ!」
頭がこんがらがってディアボロスが吠えた。大地が揺れ、人々がディアボロスに注目した。
「ディアボロス様、リケイとはなんですか?」
一番慣れているマリーが最も早く立ち直り、ディアボロスに訊ねた。
「あぁ、すまない。おもしろい話ではない」
「わたくしはお聞きしたく存じます。旦那様のお話は知見に富み、どのようなお話も楽しいものでございますから」
ディアボロスはどう言ったものかと思案に暮れたが、やがて口を開いた。
「俺がもといた世界では、人の知がどの方向に向いているかを隔てて文系と理系と呼んでいた。文系は歴史や統治、あるいは物語を学び、理系は科学や技術、そして世界の真理を解き明かすことを学んだ」
「文系のほうが地位が高い、ということでしょうか。ディアボロス様は元の世界で高貴な方でございましたか」
「いや、そんなことはない。単なる分野の違い過ぎない。まぁ、理系が勤勉で文系は放蕩であるという風潮もあって、いささか文系が蔑まれる向きはあったが」
「なぜそうのようなことになるのでございましょう。そのように学の高い方が蔑まれるなどと」
「俺が元いた世界では、学びは義務だった。労働は子供にはさせない。理系は女が少なく、理系の男はあまり人気がなかった。というよりも、理系は勤勉でなければ勤まらず、あまり色ごとにかまける暇がないのかもしれない。文系が勤勉でないわけではないが、色ごとを好むならば文系という選び方をされもするというだけのことだ」
三人とも難しい顔をして考え込んでしまった。やはり文化的価値観の違いを説明によって納得させるというのは極めて難しいことであると感じる。
「しかし、ディアボロス様のお話では夢のような世界に思えます」
「なぜだ?」
「労働せずとも学びを得られ、その学びを経た者ですら好色であると蔑まれるなど、貴族のような暮らしではありませんか。それが当たり前であるなどと、さぞ豊かで平和な世界なのだろうと思ったのです」
ディアボロスは苦い顔で黙り込んだ。
「貴様らには正直に話そう。俺は、元の世界のことをあまくよく覚えていない。ぼんやりと、なんとなく覚えているだけなのだ」
「それは…」
「だが、その記憶の中でも、そう単純なことではなかったということは覚えている。世界には色々な苦しみに溢れていた。俺がいた国は豊かな国だったが、それでも人々の顔はこの国のほうが明るい」
「どうしてでございましょう…そのような、豊かな国ですのに…まさか圧政に」
「政治体系がまるで違うからな。悪政ではあっても圧政ではない。それを説明するのはあまりに難しい。しかしな、それでも暮らしやすいのは元の世界だ。俺が今不便を感じているのをひっくり返せば、貴様らを俺の世界に連れていくことができれば、さぞ幸せに感じるだろうとも思う」
ディアボロスの言葉を聞いて、マリーは何度も言葉を発しかけて逡巡した。
「構わない。言え」
「…はい。ディアボロス様は、その… 元の世界にお戻りになりたいと、お考えですか」
ディアボロスは深いため息をついてから、答えた。
「そのつもりはない。王にそれを求めるつもりもない」
「…なぜですか?」
「…俺は元の世界のことを覚えていないんだ。覚えていない場所に帰りたいと思うことは難しい」
その言葉に、ルシカが寂しげな顔をした。
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