第6話 彼氏は激務

小気味よい調子の、まな板と包丁がぶつかる音がする。

その音は、よく社員食堂や朝の市場の屋台で聞く音だった。

鶴はその音に惹かれるように、目を覚ました。いい音だったのだ。

とんとん、たんたん、じゃっじゃー。

いい音とともに、なんだかわからないけれど、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。

おんぼろ家二日目にして、鍋狸の行動を理解するようになった鶴は、もう仰天しない。

だが、あの鍋は一体何を作り始めているんだろう。

昨日確かに、色々な物を買って来たけれども、鍋狸のご飯は色々な意味で突き抜けているから、予測がつかないのだ。


「おう、鶴、目が覚めたか」


ロフトの柵越しに、自分の背中のものをいじっていたブンブクが、声だけかけてくる。上に顔をあげないのは、見上げたら背中の中身をぶちまけてしまうからに違いない。


「おはよう、ブンブク。いい匂いだね」


「いろいろ買ってきてもらったからなあ、おいら、張り切っちゃったぜ。直に出来上がるから、顔洗ったり身支度して待ってろよ。彼氏は何か知らないが、仕事のお電話で呼び出されて、おいらに鶴にお礼を言ってくれって言って明け方に出て行ったぜ」


「……ああ、あいつ修正者だから」


「修正者? ああ、結界の修復係なのか、それは激務だな」


鍋で狸なこの珍妙なブンブクにさえ、獣気を遮断するための結界を補強する修正者は、激務と考えられてているのか。

鶴はそんなにも昔から、修正者って激務だったのだろうかと、この鍋狸の年齢? 使用年数というのか? を考えてなんとも言えな気分になった。

八十年以上前から、結界の修正者は大変な仕事と周囲に思われるものだったに違いない。

何故ならば、ブンブクは外の世界をあまり知らないはずだからだ。

道具が世界事情に詳しくてたまるか。特に道具には関係がないだろう、獣気と結界の事に詳しいわけがない。

修二郎は、結界などの専門家でもなければ、それらの関係者でもなかったのだから。

まあそれを言ったら、彼に援助を依頼する研究所は後を絶たなかったはずだが。

考えても意味がないだろう。とにかく一つはっきり言える事として。

矢田部は、修正者の中でもかなりの腕前を持つ男なのだ。

それこそ、明け方から呼び出されるくらいには。

鶴は矢田部の能力の全貌を知らないが、自分と幾つも違わない年齢で、彼と同じ肩書に至る結界修正者が、年に数人も出てこない事は知っていた。

鶴の仕事場では、そう言った人の名簿なども作成するからである。事務職はかなり情報通になる事も可能だった。


「うん、年がら年中、いろんな時間に呼び出されるから、家借りてもいられる時間がほとんどないって言って、荷物もあんまりない奴なんだ」


そのため、矢田部はあちこちの女性の家に転がり込み、寝泊りを繰り返している。

荷物もあの男の場合、仕事着のたくさんあるポケットの中身だけ、と言っても過言ではない位、荷物を持たない男なのだ。

鶴の言葉に、ブンブクがふうん、と声をあげる。


「そうかい、ご苦労様な事だな。しっかしこのあたりでも、結界が必要な事ってあるのか?」


「うん。この国というか……南はかなり、獣気が薄いから、他の地方よりも結界が維持される時間がとっても長いんだけどね。結界も点検が必要だから」


「獣気がうすい南……つまりここらでも、結界が必要なのか?」


鍋狸は不思議そうな声だ。鍋で狸なこの摩訶不思議生物には、それの理由が分からないらしい。


「このあたりの悪獣は大人しいというか、そんなに大きな問題を起こさないけれど、他所からの悪獣は、すごい悪さするから」


「ふうん。まあ、どこの地域でも、縄張り争いから負けて、逃げてきた奴ってのは新しい場所で乱暴者にされちまうんだ、大目に見てやればいいのに」


「それで死人が出たら大変だから、結界貼るんだよ。せめて人間の居住空間では、そういう悪獣が入らないように」


「つまり、入れる獣は悪獣じゃねえってか」


「そうなるね、だから昨日、ブンブクの知り合いが来ても悪い奴じゃないって思ったし」


「結界におんぶにだっこは感心しないなっと……ほら、もうじき朝ごはんも弁当もできるから、下りて来いよ」


ブンブクの声に返事をし、鶴はロフトを降りた。


「矢田部に何かご飯食べさせた後だったりする?」


「まあな、明け方だったもんだから、昨日の残りのご飯に、汁物くらいだ」


「汁物って手間がかかるんじゃないの」


「あんなもの、さっさと火が通るものだけ鍋に突っ込んじまえばあっという間だよ。塩と胡椒の汁物に、バターの欠片をちょいと乗せるのさ。こいつがうまい」


「これは?」


「これは薄切りにしたから、火があっという間に通るって寸法の汁物だな。じゃがいもと人参と缶詰のトウモロコシとそれから、トマトジュースって言ったか、あのうまい橙色のパック入りの奴」


「野菜ジュース」


「それで水気と塩と胡椒を足しただけのもんだな、簡単なぶんいつでも作れる。修二郎はスライサーとかにこだわりがあったもんだから、どのスライサーが一番好みの薄さかって研究してたぜ」


「爺様、変なものへの好奇心は豊かだったからね……」


「なんでぇ、孫にまで言われちまうか! あいつ孫の前で何したんだよ」


「麦茶と牛乳をどの割合で合せたら、コーヒー牛乳味になるのかっていう話をされた」


「結論は?」


「カフェインレスは味の切れが足りないから、コーヒー牛乳にならないって」


「ぶあっはっはっは!!!」


ブンブクが爆笑している間に、鶴はご飯と汁物をよそった。


「……なんで今日はこういう汁物にしたの?」


「女の子は、洋風な味が好きなんだろ? 昨日の膨らし粉のパンも、嬉しそうだったから」


ブンブクは自分も向かいの席に着くと、やっぱりへたくそな食べ方で食事を始めた。


「ブンブク、またこぼしている」


「皿の上だからありだ、あり! だからおいらは皿の上にこぼすように食うんだよ」


「変な事に胸を張っちゃだめでしょ」


「はいはい」


鶴はなんとも言えない気分だった。鶴の両親は仕事に忙しく、朝も昼も夜も、一緒の席に座って食事をするなんて滅多になかった。

こんな薄っぺらい話題を、いつまでも喋っていても、嫌な気持ちにならないブンブクは、爺様といつまでこんな事をしていたんだろう。いつからしていたんだろう。

もっとブンブクのことが分かったら、聞いてみようと鶴は思った。

まだ鶴は、ブンブクの好物の事を何も知らないのだから。

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