第15話 気付いてしまったなんとも言えない事実
家に帰ると鍋狸がいる、そして温かいご飯がある。それは何かと忙しく忙しない彼女にとって、魅惑の事実で、どこかに寄り道してしまおうとさえ思わない。
だがこれはない。彼女は自宅に何故か上がり込み、物凄い勢いで鍋の米を平らげていき、味噌汁を飲み干し、おかずと思われる湯豆腐と別に温められている白身魚の水炊きに手を付け、近くにいる鍋狸が抱腹絶倒状態の彼氏、を見た。
「何で入ってきているの! せめて私と一緒に帰ってきてくれないかな!」
「まあまあ、つる、あんまり怒らないでくれよ。おいらが上げたんだ。腹が減って減ってしょうがないっていって、腹の虫をきゅうきゅう鳴かせて、あんまりにも可哀想だったものだから。それにつるの彼氏なんだろう、彼氏だったら上げてもいいじゃないか」
「勝手に上げないでよ! ああもう」
鶴は起きてしまった事実であるため、もう深くは言わなかった。色々な美人の元を泊まり歩いている、浮気性なのかそれとも単純に、特定の女性と言う物を持っていないのか、といったところの彼氏を睨み、椅子がないな、と思った。
「椅子ならあるぜ、こっちの方に座れよう」
彼女の視線の先を正しく読み取ったのだろう。鍋狸がにこにこしながら手招きし、彼女は、鍋狸の側の椅子に座った。やはり古い椅子だからか、軋む音がよく伝わってきた。
「ぼろいね」
「しょうがねえだろう。それは修二郎が最初の給料でおいらのために買ってきて、荷車を自分でひいひい言いながら引っ張ってきた椅子なんだ、布団と違って捨てられねえ」
「ブンブク卓の上に昇るのに椅子がいるの」
「やっぱり相手の分の椅子もあった方がいいって言ってな、修二郎の奴きらきらした目玉で買って来たんだ」
水炊きはもはや残骸のごとく食べられてしまっている。ブンブクと鶴の会話の間、矢田部はひたすら食べているのだ。
「なんでそんなに腹が減ったんだ」
その勢いについ聞きたくなったのだろう。鶴も彼の給料事情を考えたのだが、彼が極貧で食べるものも困るとは思えなかった。
それにここまで来る間にも、いくつも夜市の食べ物の露店があったはずだ。
食べ物の調達などいくらでもできそうなのに。
鶴は口を開いた。
「今日の仕事はどこだったの」
「この先の西との境界線側。そっからここまで食事をする暇もなく結界の修復、修復、修復! 今日中に直さなきゃいけない時間切れの結界が多すぎた」
「あのあたりの結界は、城島の担当なのか?」
「あのあたりの町の奴が担当していたんだが、そいつが上司に噛みついて辞表を叩きつけて出て行ったのが昨日。そいつが、自分の力を常に流して、結界を維持していたと判明したのが今日! 結界課に直接救援要請が出て、他にも何人も手伝いがいる時かされてたのにあいつら……」
「おい、箸を噛んで折ろうとするんじゃねえ! かみたいなら割りばしもってこい割りばし!」
箸を咥えてぎりぎりと歯ぎしりしかねない矢田部から、箸を奪うブンブク。
矢田部の話を聞き、鶴は記憶をあさった。そう言えば自分の課に、応援に予定していた結界張りが、現場に入れなくなった、という連絡が入ってきていたような気がする。
その連絡を受けたのは別の担当だったが……彼が叫んでいたのはかすかに記憶にあった。
自分はとにかく数字の計算を続けていたが、一部がにわかに慌ただしくなったのも記憶に引っかかった。
「応援しに来て、実はほとんど初心者とかいうんじゃねえよ! 現場に出るの初めての研修生あんな所によこすんじゃねえよ! もっと場慣れしたやつ出せ! くっそ南の結界張りが他の地域と比べて腕がいいって言ったって、西からの応援が使えないなんて思わねえ……」
「西は南よりも悪獣の被害が大きいから、結界もかなり大事なもののはずなのに……いきなり?」
「南の技を盗もうっていうんだよ」
ブンブクが棚から湯飲みを三つ取り出して、そこに緑のさわやかな匂いのお茶を注ぐ。
「南は驚異的に悪獣の悪さが可愛らしいからな。一番ひどい被害で、うまい食べ物が荷物から丸々消えて、そんだけ。場合によっては道に迷った配達員を保護して大通りまで案内したり、雪深い時には雪かきして道を開けてる駄賃に配達員の弁当だけ食われてたり。他の地域はそりゃあ、南の大人しさが気になるわけだけどな」
矢田部が苦々しい声で言う。
「だからって手伝いはまともに使える奴をよこせ!!」
「で、屋台の食い物を買おうにも、どっかで財布を落とした可哀想なつるの彼氏が、うちを尋ねてきたわけだ」
「財布落したの」
「すぐ見つかるように、綺麗な鈴をつけてたのになくなった」
矢田部は悔しそうにいう。よほどすぐに見つかる財布だったらしい。鍋狸が同情し、家に上げてしまったのもうなずける。
今日の矢田部はかわいそうだ。
「今日は大変だったんだ……」
「すっげえ大変だったんだよ! 大変すぎてもう、騎獣に乗るのも辛くなってきた時に、鶴の家の明かりが見えて……飯食わせてもらいたいって思ったんだ」
「そういう事情なら矢田部を追い出さないよ。もう泊まるのまで決めてそう」
「つるがいいって言わなかったら飯だけって言ってあんだ」
「鶴、泊めてくれ!」
両手を合わせた矢田部を見て、その一週間分の激務のために黒すぎる隈までできている彼氏に同情し、鶴は答えた。
「ブンブク、矢田部の分の布団とかタオルとかどこ?」
「ありがとう!! 持つべきものは理解者だ!」
「別に矢田部理解してないわ。美人と何人も関係してるの、いちいち向き合うとばからしくって」
「よその女ばっかり見て、とか言って刃物出さないじゃないか、立派に理解者だろう」
「まてまて、刃物出されるのかお前さん」
ブンブクが突っ込んだが、鶴は現場に数回出くわしているため、頷く。
「矢田部、特定の女性って私だけで、後の女性たちは結構入れ替わりが激しいんだ」
「つるの彼氏、もしもつるに何かあったら、おいらがお前さんの大事な物をチョッキンだからな、覚えておけよ」
「今真剣にぞっとした……」
身震いした矢田部を見やりそして、鶴を見て、ブンブクが深く切り込んできた。
彼女たちが話し合った事もない話題をだ。
「あと聞くけどよ、お前さんらちゃんとお互いに彼氏彼女だと思ってんのか? 口挟むのはどうかしてると思うけどよ、お前さんら見てると、妙に友人臭い」
鶴はそういえば、と記憶をあさった。
「……そういえば、一番最後にキスしたのっていつだっけ」
「その前に手をつないだのっていつだった?」
鶴は矢田部がよそでそう言った事をしているから、特に気にした事がなかった。自分は別枠だと思っていたからである。
矢田部の彼女は自分で、矢田部はほかの女性と色々している、という感覚だったのだ。
一方の矢田部は、真っ青だ。まさか彼女と公言している相手と、恋人らしい事をろくにしていない事実に気が付いたらしい。
「どっちも数か月以上やってないね」
「つる、お前さん恋愛ってものの何かしらが、すっぽ抜けすぎてねえか、おいらたちでも番とはいちゃつくぜ」
ブンブクがあきれ果てたように言い、つるはそういえばこいつ彼氏じゃなくなっても、別に何も問題ないわよね、と思った。とても唐突にだ。
そして自然に言葉が口から出てきた。
「よし、矢田部、別れない?」
「ええ!?」
「だって何か月も、手さえ握らない恋人って何なの? 私そう言えば矢田部の事、手のかかる兄か弟みたいに感じてたのよ」
「うっ……」
矢田部は言われたくない事だったらしい。言い訳をしようにも、事実が横たわりすぎていて難しい。
「前みたいな友人時代と何も変わらなくなっちゃったじゃない。だったら彼氏彼女はやめて、友人に戻ろうよ」
「……」
「矢田部は格好いいいイケメンだし、いろんな美人とも付き合えるんだから、こんな平凡なのが彼女じゃなくなったって困らないでしょう」
鍋狸が黙って機械竈の方に向かっている。耳はきっと澄ませなくても聞こえているだろう。ここで矢田部が暴れた場合、鍋狸がこの家を守るために追い出す。
「彼氏じゃなくなったら、鶴はよその男に持っていかれるだろう」
「あのねえ矢田部。そういうなら、あなたが他の女の人の元を渡り歩いているの、結構不誠実といわれる類だよ。それにそんなに友達に戻るのが嫌なら、きっぱりすっきり別れよう」
「今まで鶴、オレの女性関係に首突っ込まなかったじゃないか」
「でも。今思ったのだからしょうがないでしょう。彼氏いなくても困らないなって」
「いなくても困らないなら、いても困らないだろ!」
「そう言えばそうだ」
「俺がいるって言えば、合コンとかも断れるって言ってたじゃないか」
「そうだ、最近それ周知の事実過ぎて、誰もそう言った事に誘ってこなかったわ」
鶴は言いくるめられそうになったが、何と言い返そうか考えた。その時だ。
「おい、元彼氏。往生際が悪いぞ。女にすっぱり縁切られたら、潔く諦めるのが男だ」
どんっと鍋を置いた鍋狸が、何とか別れまいと食い下がる矢田部を、すっぱり切った。
「野性の世界でも雌にすっぱり断られたら、諦めるってのが当たり前だ。お前さんも諦めな。今日は鶴が泊めるって言ったから泊めていい。でも明日からは家に上げねえからな」
言いつつ空けられる鍋の蓋。入っているのは魚のつみれの入った汁物だ。とても具がたくさん入っている汁物は、しょうがのいい香りがする。
「鶴、水炊き全部食われちまったから、これ、お食べ。出来立てでうまいぞ」
「鶴……」
何とか説得しようと試みる矢田部に、鶴は告げた。
「友達でも、酔っぱらった時の救援要請は応えてあげるから」
「……ううう」
矢田部はしぶしぶ諦め、鶴と別れる事にしたらしい。もっと食い下がるかと思った物の、完全な別枠状態だったことが功を奏したようだ。
性的な事の一切ない、お互いに特別な別枠、といった存在だったからこそ、鶴は別れようと決めて、矢田部は別れたくなかったのだ。
だがそれも、お互いの感覚がずれていったら終わる関係だ。
その日、鶴は数年続いた彼氏と別れた。
後悔は全くない別れだった。
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