第10話 熱源が多いといいらしい
風呂から出てすぐに、出来立てのごはんがあるのは非常にうれしい事だ。
鶴はそんな当たり前の事実を、今まで知らなかった。
両親は仕事で忙しく、冷めたものを取りあえず温め直して食べたり、外で買ってきて食べたりする事ばかりだった。
それがいい事か悪い事かの議論はどうだっていい。
鶴は両親が好きだったのだから。
しかし、目の前の光景には、驚くしかない。
「こんなに幾つもどうやって作ったの」
「煮ただけ、焼いただけ、温めただけ、茹でただけ」
それがなんなんだ、と言いたそうな声でいう鍋狸が、鶴を見て言う。
「熱源が多けりゃ多いほど、同時進行で飯が作れるってだけだろ。野菜は茹でただけだし、こっちの油あげはこっちの小型天火でちいっと薬味を乗せて焼いただけ、こっちの魚は煮ただけだ。あとは味噌汁、うまい飯」
「だけって」
「ようはどんだけ回数やってるかってだけの話だろ。おいらの頭の中にゃ、七十年修二郎と食ってきた飯の作り方が入ってる」
けっけっけ、と悪戯が成功したような声で笑ったその鍋狸は、まだ問いかけて来る。
「食えない野菜とかあったか、修二郎はどうしても食えない魚があってだな、太刀魚ってんだ。それ以外の魚はうまいうまいって食ったんだが」
「好き嫌いは、とくには、気にした事がない」
「よおし、じゃあもっといろいろやれるな」
「ブンブクはこんなにたくさん、一度に作れるの? すごい、天才」
「だーから、熱源の数の問題だって言ってんだろ。でも褒められて悪い気はしねえな、もっと褒めろ。食べた後でな」
鶴は急いで卓の前に、小皿などを出す。箸だけで食べられる物の多さも、なんとなく気楽な感じがした。
鶴は肉刺と匙と小刀の食事が苦手なのだ。箸と手づかみと、そう言った物が好きである。
対面の鍋狸は、くるくるとよく動く四つ足で、棚の一つの溝を引っ張る。
ぎちぎちぎち、という音とともに現れたのはまるで酒樽の山だ。
もう驚かないぞ、と思いかけていた鶴だったが、彼女の理解を祖父はここでも超えていたらしい。
「こんなぼろっちい建物に酒蔵作ったの爺様」
「いいや、これはおいらの趣味だな、修二郎は酒の味は好きだし、うまい酒にも目がないやつだった、でももっと好きだったのは仲のいい友達や知り合いと、でっかい座卓で飯をつつく事だった。だからおいらが、この酒蔵を作った」
「なんで?」
「飯つついてる時に、ここぞって時に、料理に合ううんとうまい酒を出すだろ。そうすると修二郎に喝采が上がるわけだがな、あいつはそうするとすぐに、おいらを引き寄せて、おいらがすごいんだって言ってくれてな。それが長い事楽しくってな」
思い出を噛みしめる声で言う狸だが、何かの力でひょいっと酒の瓶を一本引き寄せる。それが一升瓶なので、鶴はぎょっとした。
「それ空けるの」
「空けねえよ、酒はほどほどが楽しくてうまいものって決まってんだろ。何匹酒で馬鹿やったか」
鶴はそこで、鍋狸の仲間が、お酒を飲んで酔っ払って醜態をさらしたんだろうな、と察した。
「ブンブクは仲間がいっぱいいるよね」
「ほとんど子分だ」
「へー」
冗談みたいなものだろう。鍋狸に子分がたくさんいるとも思い難かった。
とにかくブンブクは、酒を薄いガラスのグラスに注ぎ、いう。
「鶴は飲むか」
「うん」
「じゃあこっちのうすはりだな。修二郎の奴がうすはりのが欲しいって言って、それを聞いて面白がった奴が手作りで作ってくれたやつだ。中に金箔がまざってきらきらして、酒が一層うまい」
鶴に差し出されたのは、薄紺のガラスの中で、金色の粉のような金箔が、きらきらと混ざるグラスだ。
本当にきれいな品物だったため、鶴は疑問が口を突いて出た。
「なんでこんな割れ物、ここに置いていたの爺様」
「前も言っただろ、ここは修二郎の秘密の厨だって。修二郎がとびっきりのお気に入りを、たっぷり秘密基地に隠したような物さ」
「え、じゃあ本家には爺様のお気に入りはないの?」
「本家のはあっちこっちからの贈り物も多いって言ってたな、あいつ。もらったからには使うべきだろって言って」
鍋狸はそう言った後、
「飯が冷めちまう、食おうぜ」
と箸を前足に取った。
鶴は食器を並べて、好きなだけよそれ、と言わんばかりのたくさんの白いご飯を適当な茶碗によそって、同じ要領で鍋敷きの上に置かれた片手鍋から味噌汁も注ぎ、両手を合わせた。
「うわ、この油揚げおいしい……」
「これをいかにカリカリと、じゅわっとしたうまさで焼くかで議論した事がある」
「答えは?」
「焼く時味は付けないで、食べる時に好きなだけ出汁醤油を浸す」
「……考えてもなかった、その出汁醤油は?」
「ほれここだ」
単純に薬味と油揚げの香ばしさと、染み出る大豆のうま味に喜んだ鶴は、そこに襲い掛かる出汁醤油のダメ押しに、言葉が見つからなくなった。
とにかく、うまいのだ。こんな単純で美味しくていいのだろうか。
そしてこれはお酒のおつまみの傾向にある食べ物で、うすはりのグラスの中の、辛口のお酒が一層薫り高く美味しく感じられた。
「茹でた野菜なのになんでこんなにシャキシャキしてるの?」
「腹を壊さないぎりぎりのあたりまでしか熱を入れないからだな」
「茹でた野菜ってくったくたしている事も多いのに」
「鍋がそれを極めないでどうすんだよ」
「お魚も臭くない」
「魚が臭いのは鱗だのはらわたの欠片だのを取り忘れてるからじゃねえの? 煮えたった湯を上からじゃばーっとかけちまえば結構変わるんだよ。あと煮魚は煮過ぎると身が固くなってばっかりだ。こればっかりはおいらの研究だな」
サバの味噌煮は、一般的に売られているモノよりも若干甘味が薄い。その分魚の味や脂が直接舌に感じられて、魚であることを主張した。
「売ってるやつと甘さの感じが、なんかちがう……? しつこくない」
行儀悪く、白いご飯の上にサバの味噌煮を乗せて食べている鍋狸が、簡単な事のように言う。
「余所のは水あめ入ってるからな。修二郎がその味よりも、嫁さんの味の方が好きで、くやしいから作り方偵察した」
「偵察」
「修二郎の奴、週に一回サバの味噌煮でも怒らねえもんだから、しょっちゅう作って顔見てたんだ」
「顔?」
「旨いと顔の表情なくなるだろ、人間。味覚に全部行くから」
そういう物だろうか、美味しいと嬉しい顔になるものでは、と思っていると、鍋狸は言う。
「鶴は若いから、まだ顔の表情が全部変わる飯って知らねえだけだよ」
「ブンブクはあるの」
「そりゃあ山ほどあるな、特に修二郎の鍋狸になってからは、いーっぱい一緒に食った。劇的にまずいものもな」
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