第2話 有り合わせ朝ごはん

変な夢を見た。へんな鍋だかたぬきだか、そんな物が歩き回って喋る夢。

起きればそれが本当に夢だったとわかるだろう。

親戚一同から鼻つまみ者として嫌煙されてきた鶴を当たり前のように、修二郎の孫だと笑う変な鍋など。

そう思えば、軽い物音はなんだろう……

鶴はそこまで考えて、寝袋から身を起こした。空はまだ薄暗い所があり、今日の天気が曇り模様だと知らせて来る。

何かダイヤル式の物を回す音、それからかちゃかちゃと何かをかき混ぜる音。ふわふわと感じる、香ばしいような甘いような匂い。

誰か何か朝ご飯を買ってきたのだろうか?いいやその前に誰か泊めていたっけ、それとも泊ったんだっけ?


「誰かを……泊めていたっけ」


呟いた後に彼女は、自分がいるのは前の貸家でなくて、爺さんから相続することになった謎の家だと思い出した。

そしてここは、その屋根裏部屋に似た部分だった。おしゃれに言えばロフトとかいうだろう。

だがなんとなく、屋根裏部屋と呼びたい雰囲気満載だ。


「……何の音だろう」


昨日の腹が煮えくり返りそうな、遺産分配の事を思い出してから、鶴は物音の方……階下を見下ろした。

屋根裏の床には柵があり、そこから階下を見下ろせるのだ。

そこは家の割に大きなダイニングテーブルがあって、機械竈が見えるはずだったが……


「鍋が勝手に動いてる、え、あれ」


何やら一つの鍋が、ちょろちょろと機械竈のあたりを行き来し、何かしているようなのだ。

理解できない、と思考が半分跳びかけた鶴だったが、これはまだ夢の世界なのだろうかと考えてしまう。

鍋がひとりでに動いて、料理らしい事をしているとか夢以外の出来事だったらなんだ。

舶来品の珍品や違法品でも、自動人形系はなかったと思ったのだが。

ロフトから階段を下りていくと、くるり、とその鍋が振り返った。

ひょこりひょこりと揺れる毛のふさふさした耳、それからひょこたんひょこたん動く尻尾。

鍋の胴体、面白がるような……爺さんに似た瞳。


「おはよう鶴。飯らしい飯なんて出せないけどな、これでかんべんしてくれ!」


「……夢じゃない……」


夢でこんなに現実的な物に触れるわけがない。鶴は思わず自分の耳をいじりながら、そんな事を言ってしまう。

その言葉を聞くと、その鍋が笑った。


「夢じゃねえよ! 寝ぼけてんなあ。ほら、飲んでみろよ! 簡単だけどな!」


小さな白い琺瑯の鍋を両前足でもって、そいつが言う。

鶴は寝起きだったからか、疑いもしないで昨日使った食器棚から、ありすぎるほどあるマグカップの一つを取り出した。

それを軽く水ですすいで、テーブルに置くとそいつが琺瑯鍋の中身を注いでいく。

ほこほこと揺れる白い湯気、それからなんとなく甘い匂い。穀物の匂いに似ている、これは……と思いながら鶴は、やや薄い黄色の液体を飲んだ。


「この家、インスタントスープの素あったんだ」


「インスタントは修二郎が嫌いだったから、ねえよ。あいつこだわりあったから」


ほんわり甘い、そして香ばしくてとろりとして、お腹の底まで温まりそうなその味は、トウモロコシのスープの味だった。

ただ、鶴がよくお世話になっている顆粒スープとは違って、塩気はくどくなくて、直接トウモロコシの味を感じるものだった。

ちょっと申し訳、みたいな感じに浮いている緑の香草の欠片が、トウモロコシだけで作るとどうしても出てしまう、青臭さを軽減させている。

とろりと舌に優しい舌触りや、喉に入る時の風味のよさから、こんなのどこで買ったんだろうと思っている鶴に、そいつが言う。


「これはただトウモロコシを裏ごしした缶詰を、ちょっと水で伸ばして塩と胡椒と乾燥香草で風味付けただけだ。水の量とかそれでいいか? もっと薄いとか濃いとか、好みはあるか。おいらはこれが一番好きな分量だけどな!」


鍋は自分用のカップなのか? 使い込まれた風合いのマグカップに、残りのスープを入れている。


「……この家、缶詰あるの」


鶴は耳を疑った。食べ物は出来合いの物で済ます事の多いこの地域で、缶詰なんて常備しているのか。

下手したら台所のないアパートメントだってあるのに……と思ってから、この家非常識だった、と思い出す。

家の面積に対しての、台所比率がおかしいのだから。

何パーセント占めてんだよと言いたくなる率なのである。

話はやや逸れたが、鍋はふうふう、あちち、と言いつつスープを飲みながら言う。


「修二郎が買ってたんだよ。いつも使いたい缶詰とかいくつもな。皆多少手をくわえなきゃ食べられないものばっかだけどよ。ん……」


ちいん、と機械竈の下に据え付けられた調温家雷が、己の中身を知らせてきた。

鍋はそそくさとその扉を開き、脇の壁に掛けられていたぼろっちい鍋掴みを両前足にはめる。


「やろうか」


「お、やってくれんの。修二郎はおいらにやらせるのが好きだったけどな」


鶴が問うと簡単に、その鍋掴みを渡される。

彼女はそれを手にはめて、調温家雷の中の天板を掴んだ。

中では何かを焼いていたらしい。そうか、香ばしい匂いの正体はこれだったのか。


「これ、パン?」


「そんな感じのものだな」


「材料って……よく聞く話だと牛乳とかだけど」


「んなものないから、粉と水と重曹と油くらいだな! あと塩と砂糖」


鶴はその食べ物の味が心配になった。おいしそうに聞こえない。あとどう聞いても備蓄食料品っぽい材料の名前だ。


「修二郎がしばらく来ないもんだから、米の在庫がなかったんだ、許してくれよ」


鍋が言う。いや、朝から焼き立てのパンとか贅沢じゃなかろうか。お米がないから許せとかおかしい、と鶴は思った物の、天板の上で焼きあがっているいかつい見た目の塊を、どう冷ますのか気になった。


「どこに置くの」


「そこ、台拭き置かれてるだろ」


「そのまま載せていいんだ」


鶴は言われた通りテーブルに乗せ、鍋が鼻歌を歌いながらシンクの下から取り出した波状の刃先のナイフで切るのを眺めた。


「ええと……名前何だったっけ」


「分福茶釜」


「長い」


「ブンブクで構わねえよ。修二郎なんかブンちゃんだった。もしくは鍋狸。……ほうらこいつを食べておけ、焼き立てが一番いいんだ」


分福茶釜は最適な大きさの皿を熟知しているようだ。迷いもしないで食器棚から、そのパンを二等分にしてちょうどいいサイズの皿を二つ出してくる。

揃いの皿ではないが、構わないだろう。


「……ほろほろしてる。パンと言うかおかしみたい」


「発酵させてないからな。重曹入れて膨らませた味じゃ、ふっくら味にならない。でも食えないくいもんじゃないだろ?」


「……単純においしいと思う」


「バターとか蜂蜜とかがあればなあ! もっとうまいぜ、おいらの一押しは糖蜜だ。あれがおいらは好きなんだ」


糖蜜って何だよ、と鶴は内心で思い、後で時間があったら調べてみようと思った。この相手は鶴の知らない事をじゃんじゃんいうのだから。

いいや、それ以上に気になる事が出来てしまう。


「なんでブンブクは、朝からご飯を作ってるの?」


「何でそんな事聞くんだ? 当たり前だろう?」


「いや、一般的に買い食いするものじゃないかな」


朝なんて特にそうで、鶴は子供の頃から、ささやかな小遣いを渡されて、自分で食べて来いと言われたものだ。

朝から誰かに作ってもらうご飯の経験など、ほとんどない。

それゆえにわからなかったのだ、ブンブクが当たり前の顔で作る朝ごはんが。


「おいらは道具だからなあ。鍋が出番ないままほこり被るのは、矜持に反する!」


けっけっけと笑いながら、ブンブクは飯が冷めるぜ、と続けた。鶴はその言葉の何とない重さが、己の知らない寂しい世界を語るようだったので、何も言わなかった。

そうだ、この鍋狸は、ここ数年、誰にも使われる事なく、存在を知られる事もなく、数多あるがらくたに似た鍋とともにほこりをかぶっていたんだ。

新しい持ち主が、不気味がって棄てる気配がないから、作ってくれたのかもしれない。

また一口かじった重曹のパンは、ほろほろと口の中で崩れる味で、ふんわりと粉の風味を感じる、手作りの味だった。


「何時まで仕事だ、どこまで行ってるんだ?」


ブンブクが食べ終わって、身支度をしている鶴に問う。


「17時まで仕事。役所の方で仕事してる」


「じゃあ、これ持って行けよ。仕事上がりに腹が減ったら開けてみろ」


そんな事を言って、鍋狸は小さな金属の筒を渡してきた。その筒は、使い込まれた温かさを持った筒だった。


「なに入れたの」


「不気味なものじゃねえから安心してくれ!」


そこは胸を張る場所じゃない。そんな風なツッコミは内心に留めて置き、鶴はここから数十分はかかる仕事場を目指して歩き出した。

目指すは船着き場だった。

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