第38話 甘いものと苦いもの

本当に先ほどまでは大きすぎる狸だったのに、今は鍋狸の姿になってしまっている。

確かに台所道具をこれでもか、と詰め込んだ台所で動くのに、あのお腹の丸い、ふわふわした大きな狸の姿はさぞ不便であろう。

鍋狸は冷蔵庫をごそごそと漁っている。何かあったかな、という言葉の通り、あんまり材料はそろっていないはずだ。

お使いだって頼まれていないのだから……と鶴が階段を降りて行くと、朝ごはんの方向性が決まったらしい。


「つるや、つる。そこにあるバターケーキを焼いてくれないか」


「え……、と?」


鶴はそこにある、と言われて示された紙袋のロゴが、自分が昨日買えなかった、行列のできるバターケーキの店のものだとすぐに気付いた。

狸印はそれだけインパクトがあるのだ。


「やくって……」


ケーキって焼き直すものなの? 鶴は突っ込みたかったが、ブンブクは片手鍋に何かを投入している。


「一分とかそれ位でいいんだ。温め直す感じだな。バターケーキは温め直すと、バターのいい匂いが復活して、ふわふわでしっとりして、うまいんだ」


そうなんだ。知らなかった。というか、こう言った焼き菓子を温め直す、という感覚を持っていなかった鶴にしてみれば、そんな事は衝撃だった。


「米も炊かなきゃないし、パンもないし、お粥もそんな気分じゃねえし。だったらそこにある甘くてうまいもの食べたって、罰は当たらねえだろ」


ブンブクは銅製の片手鍋に、全神経を集中させているらしい。

何をしているのだか、と思いながらも、鶴はバターケーキを紙袋から取り出した。


「分厚い」


「ああ、あいつらおいらには一番うまいのを出すんだ」


バターケーキは切り売りだった。だが一人でこんなに分厚く買う人は早々いないだろう。

驚くほど分厚くきられている。

縦と横がほとんど同じと言っていいほどだ。


「それ、そのままだと小型天火に入らねえだろ、だから横に切るんだ」


横に切る、と言われた鶴は、取りあえず食器棚からそう言った小刀を取り出した。前にブンブクがそれを使って、クイックブレッドを切り分けたのだ。

切れないわけがないだろう、という予想通りに、バターケーキはすんなりと切り分けられた。

それを小型天火の中に入れて、カリカリという音とともに一分半ほど、タイマーをセットする。

彼女がそうしている間に、辺りには香辛料のにおいが立ち込めている。


「換気扇点けた?」


「おっと忘れてたぜ」


ブンブクの手が離せない様子なので、鶴は代わりに、換気扇の紐を引っ張った。ぐるぐると羽が回って、空気が換気されていく。

鶴はそこまで、ブンブクが集中している鍋の中身を覗き込んだ。

なんか黒い粒や葉っぱの切れ端や、木の欠片にしか見えないものが入っている。

それと明らかに茶葉まで入っている。それらが弱火でぐつぐつと煮られているのだ。


「これは何?」


「目が覚める茶だな。香辛料の匂いで、目が覚めやすくなる。寝ぼけた時にはてきめんに効くな」


言っている間に、程よい抽出になったのだろう。ブンブクはそこに牛乳を、計りもしないでどぼどぼと入れていく。豪快だ。


「大丈夫なの?」


「沸かし過ぎなきゃ問題ねえ」


事実、狸の微調整の結果、鍋の中身は吹きこぼれそうで吹きこぼれていなかった。



温め直したバターケーキと、香辛料のたっぷり入った牛乳入りのお茶。朝ごはんというよりもおやつ感覚のそれだが、鶴は文句を言う理由がなかった。

作ってもらって文句を言うなんて何様だ。よほど苦手な食べ物が入っていない限り、出されたものを美味しく食べるのが礼儀である。

鶴は両手を合わせてから、バターケーキを口に入れた。

もう、確実に上等のものを使った味がする。嫌な香りなどはなくて、とにかく、バターの濃厚な風味が感じられる。温めたからだろうか、ぼそぼそとした食感とは大違いの、しっとりと滑らかな舌触りである。

甘さはかなりの物で、バターと砂糖を相当に使った、ハイカロリーな味である。

だがそれがいい。ものすごい贅沢な味だ。

これは滅多に食べちゃいけないものだ、と鶴は内心で思った。

だって美味しすぎる。普通の生クリームなどを使った洋菓子よりも、がつんと美味しくて素朴だ。

ただ、毎日食べるものとは違う味でもあった。


「これ、並んで買ったの?」


「店に顔出したら、待ってましたって言われて渡されたんだ。ちゃんと金払ってるぞ」


「へえ……」


口に含んだ香辛料入りのお茶は、確かに色々な香りが複雑に相まって、しかし個性を程よくまとめた香りである。

口に入れた時に感じる香りと、喉の奥で感じる香りは全く違う。香辛料をいくつも使っているからだろう。

だがそれが重苦しくないのは、配分がよいからだろう。

砂糖を入れなかったからか、甘い甘いケーキと苦めのお茶は、実に相性が良かった。


「本場の配分だと、砂糖もたっぷり入れるんだけどな、バターケーキうまいから、砂糖入れねえんだ」


「それは正解だと思う」


「だろう? 修二郎もそう言った」


あっという間にそれらを食べ終えた鶴は、身支度を済ませた。ブンブクは風呂場に行ったと思ったら、十五分ほどで戻ってきた。

それも色男に化けた状態でだ。昨日とは違う着流しは、やっぱりどこかから持ってきたのだろう。


「さて、銭湯開けにゃならねえな」


時計の針は、十二時の手前であった。

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