第39話 靴を選ぶ人は謎の美女

しゃれた靴はあいにく、昨日踵を壊してしまった。せっかく接着剤で貼り付けても、いきなりまた壊れたら、たまったものではない。

そのため鶴は、靴にあわせて、衣類も選ぶと決めていた。

今日はそこら辺をうろうろする学生に、よく似た格好だ。襟付きのシャツに、綺麗なズボン。足元はそこそこくたびれた運動靴。

これなら、どこに行っても大体そんなものか、という印象を受ける格好だ。

つまり平凡な格好である。

ブンブクのように、見事に着物を着こなせる自信も、鶴にはない。

そして鶴が着る事の出来る着物は、この家にはないのだ。


「それじゃあ、いってきます」


「おう、お使い忘れんなよ」


ブンブクはと言えば、その見た目のまま、銭湯に向っていく。銭湯の前には、待ち構えていたように、数名の泥に汚れたご婦人方がいる。男性陣も無論いる。

彼等はブンブクに何か言い、ブンブクは気の利いた事でも言ったらしい。

彼等の間に、剣呑な雰囲気はまったくなかった。

それがいい事だな、と思いつつ、鶴はまた今日も、定期券を使って、船に乗った。

船の上も、観光客が多い。やはり蚤の市を目指す人たちは多いのだろう。

鶴もそれはよくわかる。あれだけの出店があるのだから、そりゃあ観光しに来る人も多かろう。

情報が限られていても、その情報は南の地域だけならあっという間に回るのだ。

何しろ人の口に戸は建てられないし、みんな雷話でおしゃべりするのが好きなのだ。

行き交う船全部がにぎわっていて、それだけこの、鑑定集団がやってきた事に付随する蚤の市に、お客さんが期待しているのが伝わって来る。

鶴はそれもいいのだが、何しろ自分は靴を新しくしなければならない身の上、蚤の市の優先度は今日はとても低かった。

そんな風に船に揺られていくと、不意に空の方を乗客が見て騒ぎ出し、同じように彼等の見ている方向を見ると、そこでは南の竜が悠々と空を泳いでいる。

あれは矢田部の竜だろう。鶴は見ただけでわかった。矢田部の竜はほかのに比べて、鱗の紅色の光が強いのだ。矢田部が溺愛している竜だけあって、その見た目さえ指折りの美しさである。

鶴は仕事の都合であまり見ない映画でも、矢田部の竜は引っ張りだこだ。何しろ見た目が抜群に良い。

映画監督たちが、何度も矢田部に竜を貸してほしいと頼んできている事は、申請書から知っていた。

女の子たちの危機に、颯爽と駆けつける竜に乗ったイケメンを撮影する際、矢田部の竜はとにかくいいのである。

まさにその竜に彼氏と乗るのは、うら若き乙女の夢だろう。

鶴にとっては、夢でも何でもない、よくあった日常だ。

ちなみに、矢田部が怪我で入院する際、竜は宿舎で世話をされる。そういう訓練をしているため、矢田部を恋しがって竜がそこから逃げ出した事はないらしい。

それだけ、矢田部の訓練がうまかったという事だ。

それはさておき、矢田部が乗っている竜は空を見事に泳ぎ、体をくねらせ、城島の方に去って行った。

あの方角は城の上部の方だな、と鶴はすぐに察した。

矢田部が今日休みかどうかは知らないが、何か報告する義務のある事でもあったのだろう。

その程度にしか思わなかったため、鶴は最後まで、矢田部とともに、お上品な女性が、竜に横座りしていて、彼女のたってのお願いで、鶴のいる船から、自分たちの姿が見えるほど近くまで接近した事に、気付かなかった。



定期券を見せて船から下りる。鶴はとりあえず、一番に靴を見ておくつもりだった。

ブンブクのお使いは二番目である。三番目に、何か休憩がてらおやつでも、という具合だ。

靴は、城島に暮らしていた時に、いつもお世話になっていた靴の店と決まっている。

足型をとってくれる店のため、具合のいい靴を探しやすいのだ。既製品でも、微妙に具合が違ってくるのが、靴の不思議だった。

鶴はそこで、いつも通り同じような、バレーシューズに似たパンプスを買う。

ここのさりげない気遣いのある造りが、鶴の心にちょうどいいのである。

踵が痛くならないようにしてあったり、つま先が窮屈になり過ぎないように設計されていたりといった所が、鶴のお気に入りだ。

さて、と彼女がいつものように、濃い灰色のそれを買おうとした時だ。


「ちょっと待ちなさいよ」


鶴はやけに尖った声を向けられ、店員とともにそちらを見た。

いつの間にそこにいたのだろう。そこには、間違いなく美女だっただろう女性が、鶴の脇に立っていたのだ。

そして険しい顔で、鶴と鶴の買おうとしている靴を見ている。


「あの……?」


気に障る事をしただろうか。何もした覚えのなかった鶴は、怪訝な声をあげた。

元美女であるその女性は、険しく厳しい顔をして、鶴を見て、赤く染められた唇を開いた。


「なんてもったいないの!!」


もったいない。何を言うのか。

極端に混乱しかけた鶴であったものの、彼女は鶴から持っていた靴を奪い取り、それを脇に置き、一組の靴を出してくる。


「あんたの背丈と腰骨の高さだったら断然こっちよ! それに何その個性のないやぼったい鼠色は! 鼠色を粋に着こなすのは百年早いわよ!」


出された靴は、綺麗な、綺麗な目も覚める青色の靴である。

こんな目立つ靴なんて、と思った鶴だが、彼女は早く履けと言わんばかりの勢いだ。


「あんたの顔色ならこっちなのよ! それとこれとこれとこれね!」


目も覚める青色の靴は、鶴の買い求めようとしていた物に似たデザインだが、間違いなく鶴が自分では選ばない色だった。

安物に見えない。

そして靴底が、鮮やかな空色である。その空色に、鶴はちょっとだけいいな、と思った。

言われるがままにそれに足を入れると、確かに、いつも買っているお気に入りのデザインよりも、安定感があって、それでいて、ごく自然に背が伸びる。


「全身鏡! 早くしなさい!」


その元美女は、店員に指示を出す。慌てて全身が映る鏡を運んできた店員は、彼女の指示の元、鶴が自分を見られる場所にその鏡を置いた。

鶴は鏡の中を見て仰天した。

先ほどまで、運動靴を履いて、おしゃれに関心のないやぼったい学生のようだったのに、その青色の靴を履いただけで、いきなり、シンプルな格好をしたおしゃれな女性に変身してしまったのだ。

そんな事ってあるだろうか、と思うほど、その印象は変わってしまっている。


「あと三つあるんだからね」


その女性があまりにも熱心であるため、鶴は彼女のいうがままの靴を全部履く事になった。

そしてそのどれもで、服は同じであるというのに、全く印象が違う自分が出来上がってしまったのだ。

これは何かの魔法じゃないか、と鶴は考えたものの、彼女は履かせるだけ履かせて満足したらしい。

どれを買え、と強制はしてこない。

鶴は、迷いに迷って、最初の青色の靴を選んだ。

中じきの空色が決め手だ。


「あの……」


値段も程よいあたりで、順当な金額である。

しかしいい物を手に入れたため、彼女にお礼を言おうとした時だ。

彼女はもう、店の近くのどこにもいなかった。


「あれ、さっきまでいた人は?」


鶴が店員に言うと、別の店員が答える。


「履物を買って行かれましたよ。お友達ではなかったのですか?」


「全然知らない人で……」


全く知らない相手だった。なのにいきなり鶴に似合う、綺麗に見せる靴を選んで、どこかに消えてしまったのだ。

彼女は一体誰だったのだろう。

鶴は、彼女を思い出そうとすると、どうしてもぱっさぱさの濃い金茶の髪の毛と、かさかさの肌しか思い出せずに、唖然とした。

綺麗にすれば美人なのに、と喋りながら何度も思ったのに、その顔を全く記憶に残せなかったのだから、驚くほかはなかったのだ。


「いったい……」


訳の分からないまま、鶴はそこを後にし、気を取り直してブンブクのお使いに行く事にした。

鍋狸の書いた住所の通りを目指すと、そこは古めかしい建物である。時代劇に出てきそうな古さだ。

そして開店していることを示す暖簾が、前にかかって風に揺れている。

鶴は店の名前を読んだ。


「ええと……野脇醤油店……醤油?」


お使いが醤油なら、そこら辺のお店でよかったんじゃないだろうか。

よく分からないながらも、鶴はそこの暖簾をくぐった。


「いらっしゃい、あれ、ここは初めてですか?」


優しい声をかけてきたのは、お店のおじさんである。鶴は何と言えば通じるか、と思いながらも、一応答えた。


「お使いで……」


「ここにお使いに来るなんて珍しい。ここは個人で来る人は滅多にいないんですよ」


「ブンブクという物のお使いで……」


鶴がブンブクの名前を出した途端だ。おじさんが嬉しそうに笑った。


「なんだ、分ちゃんのお使いか! ブンちゃん元気かい」


ブンブク、狸鍋なのに知り合いいるの、ここも子分!?


まさかのブンブクの知り合いとあって、鶴がびっくりしていると、おじさんが奥に向かって声をかけた。


「ばあちゃん! 分ちゃんのお使いの子だよ! ばあちゃんのお客だよ!」


なんだなんだ、と目を白黒させているうちに、中から健康に歳を重ねた、しわくちゃのお婆さんが現れた。

ゆったりとした速度で彼女の前にやってきたお婆さんは、鶴を見て微笑む。


「初めまして、分太郎さんのお使いの子が、こんなかわいい女の子だったなんてね。そうだ、そうだ、思い出した。今年の味噌が出来たから、電話をかけたんだったねえ」


言いながらも、お婆さんの後から、にこにことした顔のおばさんが現れる。


「いつも分太郎さんは味噌を三キロ買うのよ。今年は何キロ?」


「おばあちゃん、女の子なんだから、三キロもいきなり持って帰れないわよ」


「じゃあ今度、孫にでも御用聞きさせに行くかねえ」


「もう!」


「あの……?」


色々ついていけない鶴が、かろうじて分かったのは、ここの味噌をブンブクが何度も買っているという事だった。

それも三キロ、かなりたくさんである。

リュックサックで出かければよかった、リュックサックだったらきっと、背負ってもそこまでの重さにならなかったはず、と少し出かけた時の格好を後悔した鶴だが、彼等は意見をまとめたらしい。


「お嬢ちゃんは味噌汁を毎日飲む?」


「まあ飲みます」


「じゃあ三キロだわね、よし。あ、お代は今度品物と引き換えに、孫に支払ってもらうから大丈夫よ。今日はそれじゃあ、いつもと同じように、分太郎ちゃん用のお試しの味噌を三種類、味見くらいだけね」


そこに鶴が選ぶという選択肢はないらしい。あっという間に小さな袋に三つ、味噌が詰められて、茶色の袋に入れられて渡される。


「あの、お代は……」


「これは毎年、お得意様に配っている新しい味噌のお試しだからいらないわ」


「分太郎さん、しばらく連絡つかなかったから、君にお使いを頼んだんだろうね」


つまりブンブクは、また御用聞きが来てほしいから、一度鶴をここに行かせたのだろうか。

そうかもしれない、と鶴は味噌の袋を片手に、その店を後にした。

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