第31話 美しい青年(バターケーキの匂いの)

狸印のケーキはとてもおいしいそうな匂いがしていた為、鶴はとにかく残念でたまらなかった。

切り落としが、後半から量り売りされるなんて思わなかったのだ。

彼処でもう少し長く行列に並んでいれば……と思うのは、鶴ばかりでは、ないだろう。

誰だって思うに違いなかった。たとえば切り落としがイヤではない人だったら誰でも思っただろう。

この世の中には、切り落としではいや、と思っている人も結構いる物だが。

鶴は気にしない方だったため、ああ、なんて事だと肩を落として、そのまま骨董品などが並ぶそこを歩いていた。

歩いていた時だ。

彼女はどうやら、結構人が集まらない区域に足を踏み入れてしまったようで、あれだけの雑音がしていた蚤の市でも、妙に静かな場所に入ってしまっていた。

そこでは、色々な人たちが、やはり色々な物を売っていた。

だがにぎやかさはなくて、ひそひそとした声で会話が行われている。

客寄せのよく通る声で商売する人はいないらしい。

ここはいったいどんな区画だろう、と鶴が店の中を覗いて、そこの品物たちの金額が、ゼロが二つ多いような、高級な骨董品を取り扱う区域だと知った。

考えないで歩いてきてしまったが、確かにこんな値段の物がおかれている場所では、皆ひそひそ声になるだろう。

道を戻ろう、と鶴が踵を返した時。

ばりなんて嫌な音がして、彼女の靴底がはがれた。

ちょうど踵を返そうとした時という事もあって、彼女は盛大に倒れ込んだ。

とっさにどこの店の物も巻き込まないように倒れたため、弁償問題は発生しないだろう。

だがとても痛かった。

鶴はずきずきと痛む膝にうめいたのだが、その時。


「大丈夫かい、ずいぶん見事に転んでいたが」


背後から声がかけられ、鶴は立ち上がりながらその声に答えようとした。


「ええ、大丈夫……」


彼女はそこで目を疑った。

あり得ないくらいの美貌の青年がそこに立っていたのだ。

鶴よりはいくつか年上の、目も覚めるような美しい男である。

この人以上の美しい男など、どこにも現れたりはしないだろう。

そんな事を思わせるだけの、物がある青年だ。

そしてその青年が身を包むのは、昨今見かけなくなった、着流しである。

着流しの隙間から見える肌なども、匂い立つように見事な色をしている。

何から何まで完璧だった。彼の衣装の組み合わせも、彼の個性を何も損なうことなく、使われている。

彼はこう言った恰好に慣れているのだ。

慣れているから、動きの一つ一つに、嫌みがない。

そして、彼女の目が嘘ではない事を証明するように、その男を見ているのは彼女だけではない。

たくさんの人間が、彼を見て、口が開けっ放しになったり、物を落としそうになっていたり、立ち尽くして動けなくなったりしていた。

だが青年はそんな視線に慣れているのか、気にもとめない。

そして唐突に鶴の足下にしゃがみ込んだと思うと、柔らかい声でこう言った。


「靴を見せてもらえるか」


「え、あ、はい」


言われるがままに靴底のはがれてしまった靴を見せると、彼ははがれた靴底を確認し、問いかけてきた。


「一時しのぎになってしまうが、くっつけるか?」


「あ、出来るんですか?」


「この靴はもう、使い古されてるから、修理できる靴じゃねえ。でも今日だけ、ごまかすくらいだったら出来る」


「あ。それじゃあお願いします……」


イケメンな上になんて優しいのだろう。感動した彼女は、そのまま、彼が腰の袋から当たり前のように靴用の接着剤を取り出して、靴底を張り付けるのを眺めた。

実に手際がいいが、この人は靴の修理を請け負っている人なのだろうか。

そんな事を思った鶴だが、一瞬で人の目をすべて奪いそうなその美形は、靴をくっつけると彼女に手渡してきた。


「接着剤が乾くまでは、走らないでくれよ、また剥がれるからな」


「何から何までありがとうございます」


「いいって事よ。それじゃあな」


彼はにぱっと、美形が浮かべるにしてはあまりにも無邪気な笑顔を浮かべ、その笑顔を見ていた誰かが崩れ落ちるのも気にせずに、颯爽と歩いて去っていった。

ふわりとバターケーキの匂いがしたため、きっと彼はバターケーキを手に入れられた運のいい人なのだろう。

鶴はそんな事を考えた。

彼を視線でこっそり追いかけると、店の一つに入って何か、親しげに店の人間と話したあと、何かを手渡していた。

もしかしたら、店の人にお使いを頼まれていたのかも。

そんな事を考えたくなる、印象深い男の人だった。

その後いくつかの通りを冷やかしながら歩いていくと、本日の開催時間が終わる五分前と継げられ、鶴は急いで会場をでて、城島の外に宿泊しに来たのだろう人々にもみくちゃにされながら、船に乗り家路についた。

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