第32話 家の隣にできたものは……

今度はいったい鍋狸は何をしたのだ。鶴は目の前に広がっている光景が、あまりにも想定外であったため、危うく叫ぶところだった。

と言うのも当たり前で、なんと、家の脇に銭湯の看板が立っているのだ。

今時と言うにはレトロにすぎるような、木製の看板である。

その看板には、狸の一文字に円が描かれた簡単なもので、その上に温泉の万国共通の印がついている。

そこには。

「狸印温泉 大人銅貨二枚 中人銅貨一枚 小人無料 天然温泉掛け流し」

と書かれているわけだ。

これはどう考えたって、ブンブクが何か思いついて、実行したのだとしか思えない。それ以外にありえない。

そしてその銭湯には、ちらほらとそこそこの年齢の男女が向かっているのだ。


「ここがまた開いてうれしいよ」


立ち止まった鶴を追い越した、年輩の男性二人組が会話している。


「ここ、一度閉まってしまったから。もう開けないんだと思っていたのにな。大将の心変わりか?」


「でも、ここなら嫁さんに気を使ってお風呂に入らなくっていいだろ、雷池の残量気にしつつの風呂は、肩身が狭いんだよ」


「言えてるな」


どうやら、鶴の家に隣に、以前は銭湯があったらしい。

そして銭湯は何らかの事情により、一度閉めてしまったようである。

しかし今は開いているため、知っているお客さんが、来ているようだ。

鶴は微妙な顔になった。

銭湯なら、番台に上る人が必要だ。今風に言うとフロントの係員である。

その係員をどこから引っ張ってきたのだ。

鶴はそこで、もしかして爺様の風呂を、無断で使っているのか? と言う疑問を抱いた。

確かめなければ。

鶴は急いで家に駆け込み、風呂場の入り口を開け放った。

彼女の想像ではそこに、色々なお客が居るはずだった。

だがそこは静まりかえっている。誰もいない。ブンブクもいない。

こんなに泡を食ったように駆け込んできたのに、ブンブクが何も言わないと言うことは、ブンブク本人が、フロントにいるのか?

でも鍋狸もしくは、毛むくじゃらの狸の風貌で、フロントに立てるわけがない。

鶴は大きく息を吸い込んで、何が起きても叫ばないように心に誓い、銭湯ののれんをくぐった。

のれんがあるというあたりからして、レトロだった。最近の公衆風呂は、もっとしゃれた洋風の建築である。

しかし、そこはそこそこ明るく、全体的に木製で、木もかなり磨いたらしく、なめらかな艶を放っていた。

右手に見えるのが銭湯らしく、男湯、女湯、と書かれたのれんが掛けられている。のれんの向こうは、長く延びたのれんによって見えなくなっている。

きっと脱衣所なのだろう。

入り口からでも聞こえる子供の笑い声などから、結構にぎわっているな、と察する物があった。

そうだ、問題のフロントには誰が居るのか。

鶴は入り口から見て中央のフロントにどう見ても、ちょこんという言葉が似合わないのに、ちょこんと座った男性に、目を丸くした。


「靴を直してくれたお兄さんだ」


そう、そこでちまっと座っている、見る人誰もの視線を奪い、夢中にさせ、時を止めてしまう色男が、そこに座っていた。

にこにことした親しみのこもった笑顔をしていて、美丈夫がそんな笑顔をして居ると、もう、声がでなくなりそうでもある。

だが、色々な状況を考えて、あれはブンブクの関係者だ。

もしかしたら、ブンブクの人間の知り合いかもしれない。

鶴はフロントに近寄って、声をかけた。


「……誰? 何で家の隣に銭湯がいきなり出来てるの?」


人間でも狸でも、答えがすぐに返ってくるとは思っていなかった彼女だったが、相手は華やかににかっと笑った。牡丹の色気と向日葵の明るさが、一緒になったような笑顔だ。


「なんだよう、鶴がもっと楽な恰好していいって言ったんじゃねえか。これは一番楽な恰好なんだよ」


鶴は色々な物を疑いたくなった。そして叫ばないように必死に腹筋に力を込めて押さえ込んだ。何をって衝撃をだ。


「……まさか、ブンブク?」


声がそうだ。この、自分に向けられる屈託のない、そしてちょっと年輩の口振りの、陽気で世話焼きな声は、間違いなく、ブンブクの物だ。

ただ、声の音が少し違う気がしたが、声帯が人間と狸では違うのだ。違うようにも聞こえるだろう。

いいや、言うべきところはそこじゃない。


「なんで狸なのに、超イケメンに化けてるのよ……」


「修二郎の気に入りの見た目だぞ、何か不都合があるのか?」


「爺様美男子好きだったの……」


知りたくもない爺様の好みである。

爺様超面食いだったんだ……と言う重いがにじんだ彼女だが、狸はその上を行った。


「この見た目だと、買い物した時におまけがいっぱいもらえるんだよ。それでうまい物いっぱいもらったから、忘れられねえんだ。ああ、コロッケはうまかったなあ……つまり、理にかなった見た目ってわけだ」


「どこが?」


「買い物してにこっと笑うとおまけがもらえるところが。修二郎もおまけがもらえるっていうのがうれしくってな、買い物どこでもこの恰好でつきあったんだよおいらは」


「やめて、その美貌で一人称がおいらってやめて」


つまりだ。鍋狸が言うに、今の千年に一度生まれるか生まれないかってくらいのイケメンの恰好は、爺様がおまけをもらえるからお気に入りだった見た目、と言うことなのだ。

この美形をおまけ担当にした爺様の考え方は、突飛だった。


「普通そうは考えないんだけど……」


「修二郎はそうだったってわけだ。さて、お客がまだまだ来るから、つるや、フロントから離れてくれよ」


「うん……」


「安心しろよ、飯の時にはいっぺん閉めるんだから」


確かに看板にも、店主夕飯のため夜六時に一度閉まります、と書かれていた、と鶴は思い出していた。


「つるも入りたかったら入って良いぞ、内風呂とは違った趣で楽しいしな」


「うん……」


もう色々な物に脱力し、風呂に早く入りたくなった彼女は、家から着替えを持ってきて、女湯の方に向かった。

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