第33話 変装は絶対にばれないらしい
広い。鶴の知っている風呂と大きく違う広さだ。これが銭湯という奴なのか。彼女が知っている風呂や湯船とは全く違うものなのだな、とそこでわかるくらいの広さの違いだ。
爺様の趣味満載の脱衣所も大きかったが、ここはその何倍も大きい。
二十人くらい余裕で入れそうな湯船にこんこんと温泉が流れ込んでいる。
その水量はかなりのものだと計算しかけ、鶴はやめた。
これにどれだけ薪の代金があるのだろう、と考えると、赤字だとしか思えない。
鶴は周りを見回した。これはちょっとの道楽でやる事じゃないだろう。
狸の道楽にしては金がかかりすぎていやしないか。
儲けはあるのか、一人銅貨一枚とか二枚とかで。
それに誰が風呂掃除をするのだ。この長いタイルの洗い場を!
鶴が内心でつっこんでいる間にも、こんこんと温泉が蛇口から流れている。温泉のふわふわとした特有の匂いの湯気がたっていて、なんだか肌にいい方向で働きかけているような気がする。
そして洗い場にはきれいな薄い青いタイルが貼られており、大きな浴槽の背景には何かしらの前衛的な絵が書かれている。
まさか銭湯で前衛アートをみる事になるとは。
鶴は、世界の広さを知ったような気がした。
銭湯と言えば、どこかの近隣の山の風景を描く物だと、決まっていると思っていたのだ。
だが目の前に広がるのは、強烈な前衛アートである。
モザイクタイルで前衛アートなんて面倒くさいこと、いったい誰が行ったんだろうか。
芸術家にはその面倒を楽しむ人も多いと聞くが、かなりのものだ。
洗い場には、皆脱衣所におかれている桶を持って入るようだ。鶴ももちろん持って入ったのだが、ちょっと見渡すだけでも、ここに来ている年齢層はやや高めのような気がする。
ここに向かっていた男の人が、前開けていた、と言っていたから、その頃を知っている人たちが、懐かしくなって入りに来たのだろうか。
お風呂をくむのはなかなか大変だし、雷池をかなり使用する。
雷池使用料第一位は給湯なのだと、何かの雑誌に載っていた記憶が鶴の中にもあった。
この銭湯はそこを考えると破格のお値段、銅貨一枚か二枚で入れるのだ。儲けって何だっけ、と言いたくなる値段設定である。
狸だから値段を気にしなかったのだろうか。
それともこれも、爺様の趣味道楽だったから、地域貢献とかそんな物で、格安なのだろうか。
さらに子供は無料なのだ。
雷池節約のために、来る人だってこれから増えていくに違いない。
鶴は体を洗ってから、ゆっくりと湯船に使った。ちょうどいい温度より少し高い温度は、温泉ならではと言うことだろう。硫黄の匂いが少しする。
そしてちょっとしゅわしゅわする。炭酸泉なのだ。
炭酸泉は血行をよくして肩こりとかにもよく利くと言ったのは誰だったか。
「くうう……」
気持ちよさに声を上げると、隣でくすりと笑う声がした。
そちらを向くと、近くで伸び伸びとくつろいでいたおばあさんが、話しかけてきた。
「ねえあなた、もしかして、ここ継いでくれた人かしら」
「え?」
「いや、前ここの銭湯を開けてくれていた人と、おでこのあたりがそっくりだから」
ここの銭湯を開けてくれていた人とは、どう考えても爺様だ。
爺様におでこのあたりがそっくり……そんなにそっくりだろうか。
だがブンブクも、おでこがそっくりだと言っていたな。鶴は自分の額をさわった。
一回みただけでわかるほどそっくりなのだろうか、このおでこ。
知らない人から言われるほどだと、きっと似ているのだな、と思ってしまう。
「ここ、十年前に一度閉鎖しちゃったの。ここの大将さんが病気で、病院に入らなくちゃいけないからって」
確かに、爺様が入院したのは五年前だ。体の調子を崩した下のはさらに五年前からだったと聞くから、何も不都合はない。
「だから、それまでここでお風呂を借りていた人たちは、本当に残念がったのよ」
「へえ……」
「お風呂で暖まりながら、ご近所の人たちとおしゃべりが出来たり、マッサージチェアでこりをほぐしたり。ここはとってもすてきな場所だったのよ」
「そうだったんですか」
おばあさんにとって、とてもいい場所だったのだろう。ほほえむ彼女から悪い物は感じ取れない。
「だから、もう一度開けてくれて、ありがとうって言いたいのよ。それにしても、番台に座っている人の男前な事! 前に番台に座っていた人もあれくらい格好良かったのよ。だから皆して来たの。男の人はやっかめなかったわ。だって誰ともつきあわなかったんだから。それに気持ちのいい人で、男の人だって嫌いにならなかったのよ」
たぶん同じ奴が化けてます。鶴は言いたい事を飲み込んだ。
まさかこのおばあさんも、狸が変身して番台に座っているなんて思わないだろう。
言わない方が幸せである。
「さて、きれいになったらご飯だわ。もうそろそろ、一回銭湯が閉まっちゃうの」
おばあさんが立ち上がる。鶴も何となくそれに併せて立ち上がり、彼女に手を貸した。
「あら、やさしいのね」
「こういうタイルって滑って転びそうなので」
「わかっているじゃない」
笑う彼女を助けたり、さりげなく出しっぱなしになっているコックを閉めたりしていると、更衣室の前の、のれんごしから声がかけられた。
「いっぺん閉めるぞー。鍵かけちまうから。あがってくれよ」
「まあ、言い方までそっくり!」
おばあさんがはしゃいだ声で笑い、ブンブクは絶対に同じ姿だとばれないから、あの姿をとったのだな、と思った。
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