第53話 男の泣く夜
かしゃん、と発泡酒の缶がいくつか触れ合う音が響いた、誰もいない部屋。
彼は疲れた息を吐きだし、今日も市場で買いこんできた食料を片手に、誰も訪ねてこない部屋に足取りも重く入っていく。
「音が響く……」
荷物は最低限、トランクケース一つ分もあればいい方、そんな生活を長年していた結果か、こうして賃貸住居を借りても、家具が増えたりはしない。
彼は黙って流しで手を洗った後、家に置きっぱなしのラジオのコンセントをつなぎ、ラジオの電波のダイヤルを、指でつまみまわした。
余り人の訪れないこんな土地で、彼は一人暮らしている。彼は出張が多いため、あまり家にこだわりはなく、そして野外で夜を過ごす事も多い殻か、家に設備を投資しなかった。
それ故か、泥棒が入ったとしても、きっと夜逃げされた家と勘違いするだろう。
そんなすっからかんの平屋で、彼は一つ、この平屋を借りてすぐに買い求めたちゃぶ台に、食料を置き、座り込む。
そしてラジオから流れ出る、元気のいい音を耳に流し込みながら、買い求めた食事を食べ始めた。
市場の屋台の食べ物は、油っ気が少し多めだ。
それに簡単に食べられる物ばかりだからだろうか、栄養面では偏りが少しあるだろう。好みの問題もある。
「……つるう……」
彼はあっという間に食事を終え、発泡酒のプルタブを動かし、何本も体を壊すような勢いで、中身を空にしていく。
そして半泣きで、別れる事になった彼女の名前を呼んだ。
「別れたくなかった……」
そう、この男は矢田部、鶴が別れた、愛人が多いと思われていた男である。
だがなぜ、迎え入れてくれる愛人が何人もいるであろう男が、一人寂しく平屋で暮らしているのか?
そこには、一つのどうしようもない真実があった。
「おれ、女友達はいっぱいいたけど、彼女はつるだけだったんだよ……」
そう、この男が出張先で宿を借りていた女性たちは、彼の面倒を見てくれる、世話焼きな友人たちであり、恋人ではなく、まして愛人でもなかったのだ。
だが彼女たちに世話になっている自覚があったこの男は、お土産物を欠かさず、挨拶も欠かさず、律儀にやってきていたのだ。
それが、鶴に勘違いされるなどしょうもないわけだが。
実際にこの男は愛人もいなければ、今は恋人すらいないわけである。
どうしようもないダメ男である。
だが、誰かを大事に愛する、という事は、それなりにやってきた男であり、鶴はやっと心を許せるようになっていた、弱い所を見せられる彼女だったのだ。
だが彼女は、恋人らしい事をすっかり忘れていた、という理由で、いてもいなくても変わらない、と矢田部を振ったのだ。
そのため矢田部は荒れに荒れ、今こうして一人寂しく発泡酒を傾けているわけである。
鶴が、仕事先で、矢田部の浮ついた話を、最近ずっと聞いていないのも、これが理由である。
「つるぅ……やり直させてくれぇ……」
しくしく、めそめそ。そんな音が似あうような泣き上戸っぷりの矢田部である。
矢田部は今完全に酔っぱらっていて、多少の違和感には気付かない状態だ。
それを見計らったのか、建物の屋根裏がかぱりと開き、複数のふくふくとしたふわっこい獣が、降りてきた。
「元カレ、泣いてるね」
「今日も泣いているね、つるぅ、って」
「元カレ、親分の彼女がいないとダメ男だね」
「パンツと靴下洗ってない! いっぱいたまってる!」
そのふくふくした獣たちは、明らかに舌足らずな、子供っぽい口調でこそこそ話だし、それから一斉に、矢田部のもとに近寄った。
そして近くでまじまじと、矢田部を見始める。
「いつ見てもなさけないねー」
「親分の方がずっとイケメン」
「親分と比べちゃだめだよー」
「うわああああああ! つるううううううう! あんな色男どこで捕まえてきたんだよおおおおおお!」
だしぬけに聞こえた大声に、獣たちは耳を覆い、それから顔を見合せる。
「元カレ、どうした?」
「元カレ、話聞く?」
そして獣たちはよちよちと近寄り、矢田部の側で問いかける。
すると、もうすっかり酔っ払い、異常事態などわからない矢田部は、手近にいた一匹を掴み、膝の上に乗せた。
そしてわしゃわしゃわしゃああ、と癒しを得るかのようになで回し始める。
「あー、松寿ちゃん、ずるい!」
「一太郎も!」
「小梅も!」
一匹が撫で繰り回されると、それっとばかりに他の二匹も膝の上によじ登る。
矢田部はその異変に気付かず、泣きながら言う。
「報告書提出したら、鶴が超イケメンの彼氏とご飯食べてたって言われたんだよ……! おれじゃだめなのかああああ! おれなんか歯牙にもかけないくらいのイケメンだったって言われたんだよ!」
「うんうん」
「靴下臭い」
「お風呂入ってないもん」
「小梅たちだってお風呂入るのにねー」
矢田部はそうして、謎の獣……子狸たちを撫でまわし、酔っぱらった酒臭い息で、鶴の事を話し続けた。
途中子狸たちが、飽きたのか膝から下りて、屋根裏に戻って行っても、矢田部は気付く事なく、鶴とやり直したいと泣いていた。
そうして、矢田部の夜は更けていった。
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