第54話 ??????2


「親分」


小さな声で、子分が敬愛する親分に問いかける。


「なんだ? 宴の支度の事か?」


「……連れて行くんですか」


「は?」


親分は怪訝な声をあげた。その声に勇気を出したのか、子分は顔をあげる。


「彼女さんです。……連れて行くんですか? 百花屋敷に」


「何を言うかと思えば。そりゃあ、あの子の予定が合えばの話だ」


「百花屋敷の獣気は、人間の運命を覆す、と親分は前に言いました」


「だなあ、あの濃密な獣気を吸い込んだ人間の運命は、洒落にならない変貌を遂げる」


「だから聞いているんです、彼女さんの平凡な運命を、ひっくり返す予定ですか」


「……」


子分たちが、たとえ何百匹と束になっても、指先一つで叩きのめす実力者は、鼻を鳴らした。


「親分! 彼女さんの運命は平凡です、お判りでしょう。……修二郎さんの時とは違うんだ、分かっておいでのはずです!」


親分の持つ百花屋敷は、南の全狸が集合してもまだ余りある、広大すぎる屋敷だ。

そしてその領域には、人間を狂わせる、それだけの力を持った獣気が満ち溢れている。

ほんのひと時、そこを訪れただけで、人間の運命が決定的に変わるほど、その屋敷は強い力を持っている。


「修二郎の時と同じだろうが。来て、酒飲んで、飯食って、化け比べに拍手喝采して。楽しく楽しく宴を過ごして、何が違う」


親分は、鼻を鳴らして一笑する。何が違う? と笑う。


「彼女さんは、全部失っていた修二郎さんとは違うでしょう!?」


子分は悲痛な声で言った。彼女さんは、仲は険悪であるものの、親族はたくさんいるのだ。

親族をすべて失い、よりどころなんて何一つなかった、あの頃の修二郎とは違う。

子分は、この親分の決定を変えたいのだ。それは一人の運命を決定的に変質させてしまう、と知っているから。

だが親分の決定は絶対で、そうやすやすと覆せない。

理解はしている、でもどうしても、言いたいのだ。あの平々凡々な女性を、こちら側に来させてはならない、と。

しかしながら大親分はそうは思っていないらしかった。


「親も兄妹も家族もない、修二郎とおんなじだろう」


「親分!」


子分は必死に翻意を促す。だがこの事に関しては、親分が話を聞いてくれないのだ。

親分は子分の声を聞き、子分の方を見やった。

瞳が赤色に瞬く。南最強、無敗の悪獣の瞳だ。

その瞳を子分に向けて、絶対の事実として悪獣の覇者は告げる。


「鶴は、おいらの地獄に連れて行く。おいらがそう決めた。お前がどれだけ良心の呵責にとらわれても」


関係ない。静かに言われた子分は、絶対の圧力に平伏する。

普段見えない、親分の圧は、数百年ぶりで、背中の毛が全て逆立つ思いだ。


「……彼女さんは、裏切られたと思いますよ」


子分は絞り出したように言った。


「その時はその時だ」


親分はそう言う。子分はそれ以上何も言わず、すっと姿をくらました。家路についたのだろう、と力の形跡から親分はすぐに分かるのだ。


「ったく、世話焼きの子分だ」


鼻を鳴らし独り言を漏らし、大親分は酒を舐める。


「修二郎、お前がいたら、孫娘を巻き込むなって、怒ったか」


いいや、きっと怒らないだろう、お前は、しかたがないなあ、と笑うのだ。


「仕方ないなあ分ちゃんは。そんなに俺の孫が気に入ったかい」


と笑って、笑って、こう言うに決まっているのだ。


「だったら、世界で一番大事にしてくれよ、俺の可愛い孫娘なんだから」


それ位知っている。何年の付き合いだったと思っている。人間の一生分の時間に近いだけ、大親分とその親友は、時間を共にして生きてきたのだから。


「大事にはする、でもなあ、修二郎」


大親分は一人ごちる。


「おいらの道は地獄にしかならねえんだ。それで大事にしたって、言っていいか」


大親分は知っている。子分どもが知らない事実を知っている。あの子はもう、百花屋敷に行かなくても、もう、ただの人間としては生きていけない。

我に返った時には、そうだ、気付いた時には遅かった。気付くのがあまりにも遅れてしまったから、打つ手なんて、この六百年以上生きる大親分にもなかった。


「……なあ、お前の孫娘は、地獄の道で、おいらに笑いかけてくれると思うか」



あの頃のお前のように。

小さな問いかけは、誰にも聞かれる事なく闇に溶けた。

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