第8話 お使いが単独だった件について

「公子たち旅行先は今回も南って決まったらしいわ、大きな悪獣との争いもないし」


舞がそんな事を言いながら、定時なので立ち上がる。定時出勤定時上がりの彼女は、仕事もそれに合わせて熟せる優秀な女性である。

対する鶴は、他の部署からの積みあがった仕事の山をあらかた片付け終わったところで、これ以上の仕事がよこされた場合、間違いなく残業だった。


「ああ、今週も終だわ! ねえ加藤さん、今日はどこかに飲みに行きましょうよ。美味しい洋食の立ち飲み屋を見つけたのよ」


舞が楽し気に誘いかけて来る。鶴はいいな、と言いかけ、あの鍋狸が頭の中をよぎった。

鍋狸だって、毎度毎度食事の支度をしたりしないだろう。

それに何故自分が、あの珍妙な生き物に気を使わなければならないのか。

行く、と彼女は頷きかけ、しばし動きを止めた。

あの鍋狸に、爺様が死んだと伝えた時の事を思い出したのだ。

鍋狸は、一拍おいたあと、そうか、と言ったのだ。

爺様を、資産家や収集家として見ない、ただの森泉修二郎という形で見ていたあの不思議な存在は、おそらく唐突にその主と永遠に分かれた。

それと同じように、連絡も何もしないで、夜遅くに帰ってきたら、どうするだろう。


「……ごめん、今日はちょっといけない」


きっとあの鍋で狸なけったいな存在は、あの小さな鍋の体で怒るのだ。

数日一緒に過ごしているだけでも、ブンブクがそういう事をする、と鶴は察せた。

そのため、無理だという事にしたのだ。


「なんで? 今日は矢田部も来ないでしょう」


「ちょっと都合があったのを思い出した。」


「あら、そう。それは仕方がないわね」


深くは問わず、舞は笑って引き下がった。


「それにしても、買い食いしかしてなかったあなたが、最近料理に目覚めてて、人間ってこんなに変わるものなのねって思うわ。お弁当とか立派で。」


「あはははは……、それじゃあお疲れさまでした」


「お疲れ様」


「週の初めに会議の資料作る事になってるからなー」


上司の念押しに、鶴はあいまいに笑って誤魔化した。退勤のために立ち上がり、同じ進路方向なので、何気ないどうでもいい話をしながら、舞と上がる。

ぞくぞくと退勤する同僚たちに挨拶をし、出入口まで来た時だ。


「やだ、雨降ってる。私傘を持ってきてないのよ」


舞が彼女と同じように、出入口で足を止める人々と同じ事を言った。

鶴も今日雨が降るとは思わなかったため、傘を所持していない。

そして島の外まで出る自分は、間違いなくずぶぬれになるだろう、と雨の勢いから彼女は判断し、どうするかな、購買の傘はきっと売り切れ、と周りを見回す。

誰か知り合いが、傘を複数持っていたりしないだろうか、と期待したのだ。

だが声をかけられる知り合いはおらず、濡れて帰るか、今日の制服は洗わなければ目も当てられないな、と考えたその時だ。


「おい、あの傘なんだよ」


「今どきあんな古い傘流行らないだろ、骨のすごい多い傘」


「朱塗りだぜ、あれ。あんな骨董品まだ使ってるやついるのかよ」


雨が降る外を、雨宿りする誰かが指差す、その先では誰かの騎獣が、傘を口にくわえて待っている。

その騎獣は、よくしつけられたらしい、賢い騎獣だ。

そして珍しいことに、この雨の中であっても、一切不満を抱かない種らしい。

鶴もその珍しい騎獣を見ようと、人の隙間から顔をのぞかせた。

その時だ。

その騎獣が鶴の方を見て、とことこと歩き始めた。


「やっぱり城にいる誰かの飼ってるやつか?」


「おいおい、あれ水馬だろ、滅多に捕まえられないって聞いたぞ」


「本物の? 濡れた毛の色をした馬とかじゃなくって?」


とことこと歩いてくるそれの、蹄は三つ。体を流れる体毛は水に同化したように揺らめき、一見してただの獣ではなかった。

その騎獣は、ざわめく人を押しやり、なんとなくそれを見ていた鶴の前までたった。


「加藤!?」


まさか加藤の飼ってるやつ、と驚く周囲と同じように、自分の前に立ったそれにびっくりしていた鶴は、その水馬が傘を鶴に渡すと、何事もなかったように駆けだしたため、また呆気に取られてそれを見送った。


「加藤、あんなもの飼ってたのか? ちゃんと飼育許可貰ってるか?」


同僚田村が問いかけてきたため、鶴は言う。


「いや、知り合いが届けてくれたらしい……」


傘の隙間に挟まった、破れた紙切れに、傘を忘れただろう、という見覚えのある手跡の文字が書かれていた。

このやや左上がりの文字は、間違いなくブンブクの悪筆だった。

あいつの知り合い、似たような毛玉なのに騎獣を乗りこなして布団届けてきたものな、と鶴は彼の芸の細かさに感心した。

そして渡された傘を開くと、朱塗りは外側で、内側は藍色に染まり、さらに中には銀の模様で星図が描かれているという、手の込んだ造りの傘だった。

竹の骨の多さと言い、一種芸術品の様でもあったが、柄が竹なのに、やけに重たい傘だった。


「あ、舞さん、一緒に入っていく? この傘なかなか大きい」


「……ええ。騎獣が一匹でお使いに来るなんて、相当鍛錬を重ねた獣よ、そんな凄腕の調教師がこの近くに暮らしていたなら、城に報告が上がっていそうなのに……」


舞は呆気に取られていた物の、鶴の申し出に即座に頷いた。

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