第23話 束の間の平穏
エトピリカは街角で温かいパンを買って帰った。彼が焼き立てのパンなど、食べることはほとんど無い。今日は少しだけ贅沢しようと奮発したのだ。
「うわぁ、焼き立てのパンってこんな香りなんだね!」
エトピリカは嬉しそうに包み紙を抱える。
「エトピリカ、頑張ったもん。焼き立てのパンだけにとどまらず、もっと報われて良いと思う!」
「ううん。メイデンには助けられているし、これだって十分すぎるよ!」
二人に笑顔。並ぶ道。両者ともご機嫌だった。二人は街のハズレの丘の上に向かった。小さな公園があるのだ。
二人は手入れされた芝の上に座る。
「ちょっとしたピクニックみたい!」
メイデンははしゃいでいる。一緒にお出かけというイベントモードに切り替わっていた。
「せっかくだから、場所も変えて、さ。ここなら少しはきれいな空気と思えなくもないし」
公園は四方を高層ビル群に囲まれている。自然の中とは程遠いが、これは気分の問題だった。
少なくとも、ゴミだめのエトピリカの家よりは遥かにマシだった。
「あっ、私飲み物買ってくるね。何が良い?」
「飲み物? どんなのがあるの? 水以外は飲んだことが無くて。オススメをお願い!」
「わかった!」
メイデンは元気よく返事をすると駆け出していった。
一陣の風が吹き抜ける。
しばらくしてメイデンが戻ってくる。
「おまたせ。コーヒーを買ってきたよ」
「ありがとう。コーヒー飲むの初めてだ!」
エトピリカは早速コーヒーを口にする。
「うわっ、なんか苦い!」
「あれれ。甘いミルクコーヒーとかのほうが良かった?」
メイデンは無糖のブラックコーヒーを買ってきたのだった。
「ううん。はじめての味だから驚いただけ。飲み物って苦いんだね!」
飲み物全般が苦いわけではないだろうが、エトピリカの中では売られている飲み物は皆苦いものだと印象付けられた。
「パンに合いそうなものと言ったらコーヒーかなと思って」
「そうだ。パン。まだ温かいうちに食べないとね!」
エトピリカは包み紙からパンを取り出す。まだフカフカで柔らかなパンを頬張る。
「お味はどう?」
「美味しい! こんな美味しいものは初めて食べた!」
エトピリカは涙を流していた。
「パンでそこまで感動するなんて…。いままで、お金は何に使っていたの?」
メイデンは若干引き気味だった。
「貯めているよ。宇宙へ行くために、船を買う資金にするからさ」
「たまには、こういったものに使いのもいいでしょ。なにか美味しいものを買って帰ろうと提案して良かった!」
「ご飯は拾えるもので十分だと思っていた。温かい食事って、こんなに素晴らしいものなんだね」
「食事は大事だよ?」
「飢えさえしのげれば、それでいいものだと思ってた…」
喰うや喰わずやの瀬戸際で生き抜いてきた孤児の少年にとって、腹さえ膨れれば何でも良かったのだ。残飯や廃棄食品だけで生き延びてきた。
少年の衝撃体験を伴う食事はあっという間に終わった。買ってきたパンの数が少ないわけではない。だが、貪り喰らう飢狼を前には物の数ではなかった。
「ごちそうさまでした!」
「食べるのはやっ! 少し横になったら?
ほら」
メイデンは膝枕を促した。エトピリカはどうして良いかわからなかったが、メイデンにコロリンと横にされて、彼女の膝を枕に仰向けになった。
再び、風が公園を凪いでいく。
静かな昼下がり。周りにも少なからず人はいるが、誰も二人を気にするものはいない。
「風が気持ちいい…」
エトピリカは眠気に包まれた。お腹いっぱいまで食べるのも稀であったし、暖かい日差しと心地よい風がずっと張り詰めたままだった精神をリラックスさせたようだ。
エトピリカは気がついたら眠っていた。
「おやすみ、エトピリカ」
メイデンはエトピリカの髪を優しく撫でた。
エトピリカは精神をだいぶすり減らしていたのだ。今後の生活がどうなるのかわからない不安と戦っていた。躍起になって仕事を探した。心は疲れ切っていた。
今は微睡みの中。
それは苦を苦と思うことすら出来なかった者に与えられた休息。
過酷を生きる命。他の「誰か」に身を委ねて休む事もできなかった孤独。
そんな苦難の渦中にあった少年はだいぶ救われていた。
誰かという存在。
生き物ではない寄り添う者は、寝息を立てる少年を静かに見守っていた。
膝枕はメイデンの型式には標準でインストールされている機能に過ぎない。
イベントモードのメイデンがここぞとばかりに動いただけだ。
それが安らぎと平穏の一日を形作った。
日がやや傾き始めた頃、少年は目を覚ます。
「あら、おはよう」
少年が目を開けた先にはメイデンの顔があった。
「僕、眠っていた?」
エトピリカは起き上がった。
「うん。疲れていたんだよ。ここのところ張り詰めたままだったでしょ?」
「自分ではわからなかったよ…」
無理をするものは大抵自覚がないままレッドラインを超えている。
「今日は十分休めた?」
「ありがとう。少し楽になったかな。そろそろ帰ろっか?」
「うん」
その日は二人で手を繋いで帰り道を歩く。メイデンが積極的に手を繋ぎに行ったのもある。
それは、平穏な一日を締めくくる象徴のような光景だった。
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