第20話 安息
二人は廃工場からだいぶ離れた場所まで逃げて来た。
「ここまでくれば大丈夫かな」
エトピリカはようやく立ち止まり、メイデンから握り続けていた手を離した。
「ありがとう、エトピリカ。大変だったんだからね!」
「何か乱暴なことはされなかった?」
「されたんだよ! 電子パルスは電子機器に悪影響があるのに使われたし、有線ケーブルで不正アクセスされたんだから!」
エトピリカには彼女の言っていることは半分もわからない。
「だ、大丈夫なの?」
「なんとかプロテクトで弾いたから大丈夫。一応私は高価なモデルなので、セキュリティもガチガチですよーだ」
エトピリカは安堵した。意味はよくわからなかったが、大丈夫というからには大丈夫だったのだろう。
少年は知らないが、実際はかなりの窮地だったのだ。
堅牢なプロテクトも十分な設備と時間があれば破られる可能性は高かった。
もしそうなったなら、エトピリカのユーザー登録は抹消されていたかもしれなかったのだ。そして、一緒に過ごしたメモリーも消去されていた事だろう。
メイデンと名付けられた個体はこの世から完全に消え失せる。それは死にも等しい生まれ変わりだ。
そうならなかったのは、エトピリカが諦めなかったからに他ならない。
それは周囲に振り回されて生きてきた少年には珍しい事であり、また貴重な出来事でもあった。
二人は岐路を急ぐ。大分暗くなった。今日は色々ありすぎた。
にも関わらず、エトピリカを取り巻く経済状況は全く良くなっていなかった。ボロ屋に辿り着いた頃には深夜となっていて、食料調達もままならなかったが、不思議とエトピリカは疲れを感じていなかった。そればかりか、エトピリカは少しだけ幸福を感じていた。
自分の意志で望まぬ出来事を覆したからだ。受け身がちであった少年は密やかに興奮していたのだ。
障害は乗り越える事で経験となる。今日という一日は、少年の未来に或いはささやかな変化をもたらすかも知れない。
成功体験。小さな欠片は経験を伴い少年の宝物となった。
「ねぇ、エトピリカ。もし、私がいなくなったら、エトピリカはどうする?」
メイデンの唐突な質問。愛情確認かのような問い掛け。正解のある問題とは違う。
「…? そうだなぁ、悲しいと思うよ」
エトピリカは素直に思ったことを口にした。
「じゃあ、一緒にいられる時間を大事にしないとね!」
エトピリカの回答は模範回答の一つくらいの位置づけであったが、アンドロイドは気分を害した風を装うことも無かった。
これが安物のアンドロイドなら後続モデルの宣伝でもしてきたかもしれない。行き過ぎた商業主義の台頭する時代だから、そうなってもおかしくは無かった。彼女は違った。造物主は何処までもユーザーを満足させることを追求していた。彼女の抱える不具合は不幸な失敗だったのだ。
彼女が不意にした質問。女性が男性に問いかけることがあるかもしれない問いの本質。それは顧客満足度調査に過ぎない。
それを、エトピリカがメイデンを失うかもしれなかった日に尋ねたのは、果たしてプログラムされたからだったのだろうか。
「ねぇ、エトピリカ。もう寝る時間だよ?」
メイデンは内蔵時計がユーザーのいつもの就寝時間を超えているのを感知した。そして、就寝を促す。
「なんだか今日は眠れそうにないや」
「じゃあ、今夜は頑張っちゃう?」
メイデンはご機嫌な表情で投げキッスをした。
「えっ、何を?」
少年には全く通じない。
「えっ、って何よ! えっ、って! ふぇ〜ん! エトピリカのイケずぅ!」
流石にアンドロイドは不機嫌そうな表情を浮かべる。本来の使用目的を果たすのが最大の顧客サービスに設定されている。それを知らない子にすっとぼけられたようにスルーされたので、焦らされていると判断したようだ。あざとく泣き真似をする。
「なんだろ。ヘンナノ…」
エトピリカはどうしたら良いかわからず、お手上げをして首を横に振った。
「うーっ、エトピリカのいぢわる!」
メイデンはヨヨヨと床で泣き崩れる真似をした。
「…。でも、僕はメイデンと一緒だと楽しいよ!」
メイデンはぱぁっと明るい表情を浮かべた。顧客に満足頂ければ、それに越したことはないのだ。
「ほんと?」
「あぁ、本当さ!」
親しく人と接することがほとんど無いエトピリカ。誰かと笑い合うのは片手で数えるくらいかも知れなかった。
だから、少年はとても幸せだった。誰かが身近にいるということに。孤独に冷え切っていた心が温まるようなものだ。
生身であろうが機械であろうが、コミュニケーションを取れる以上は対人関係としての関係性が生まれる。
主従ではない、男女でもない。
親子ではなく、姉弟でもなく。
恋人には至ってなく、…友人と言われればそうかもしれないが、それはそれで適切なのか、だ。
結局のところ、それらのいずれでもない。
少年の心の居場所になりつつある。
平穏と平安と安息の場。
日常である。
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