第27話 狡い大人

 後ろ髪を引かれながら、永慈は森の小道に入った。

 細く、進みにくい道だ。左右から樹の枝やら雑草やらが行く手を阻んでくるので、地面が踏み固められていなければ迷子になってしまいそうだった。

 それでも何とか道を抜け、開けた場所に出た。肩で息をしながら周りを見る。

 思ったよりも大きな泉――学校のグラウンドほどはあるから湖と呼んだ方がいいかもしれない――が眼前に広がっていた。

 凪いだ水面に陽光が反射して輝いている。透明度が非常に高く、底では何かの鉱物が露出しているのか、淡いみどりのちらつきが見える。

 なるほど、確かに美しい。

 だが、肝心の明依の姿が見当たらない。永慈は表情を曇らせた。


「――ばあっ!」


 大きな声とともに背中に衝撃。草むらに身を隠していた明依が背後から飛びついてきたのだ。

「あはは。どう? お父さん。びっくりした?」

「ああ、本当にびっくりしたぞ。お前が迷子になっているのではないかと、父さん本気で心配した」

「期待してた答えとちょっと違うんですけど」

「小っさいからって、あんまり藪の中に潜り込むんじゃありません」

「小っさい言うな! そんな子どもっぽいことしないし!」

 明依が背中から離れる。ここから水辺まで三メートルほど。シートを敷いてのんびりするのにちょうど良いくらいの草地である。


 水辺に駆け寄った明依が手招きする。隣に並ぶと、「あれ何ていう石かな。綺麗だよね」と明依が嬉しそうに話しかけてきた。

「お父さんとこういう場所で、二人でのんびりするのって久しぶり」

「そうだな。買い物帰りに公園を歩くくらいで、キャンプとか連れて行ってやれなかったもんな。お前たち連れて旅行に行くのは俺の夢なんだが」

「ま、ウチじゃなかなか泊まりの旅行はね。お父さんったら、旅行は泊まりだって言って聞かないんだから。こっちは日帰りでもいいって言ってるのに」

「そこは、アレだ。親として、せっかく家族で外に出るならがっつり楽しませてやりたいじゃないか。旅行はな、旅に行くと書くんだぞ。旅に行くと」

「家族相手に見栄張らなくていいの」

「見栄ねえ……」

 そんなつもりは毛頭ないのだが、と永慈は思う。

 極端な話、家族のためなら財布が空になっても構わないと本気で思っている。

「親としちゃ当然だと思うけどなあ」

「もう。親、親ってそればっかり」

「お前たちの親でなくなったら、俺には何も残らんよ」


 明依は足下の小石を拾い上げると、泉に向けて投げつけた。スナップの利いた一投は水面に鋭く入射し、小気味よい音と波紋を残して幾度も跳ねた。

「二人っきりなのに」

 小石が勢いを失って水中に没したとき、ぽつりと明依がつぶやいた。


 彼女は兜に手を添えると、勢いよくそれを脱いだ。少し汗ばんだ顔が外気に触れ、艶やかな髪がふわりとなびく。

 永慈は注意した。

「危ないぞ」

「親としての忠告なら結構です」

 学校で見せる鋭い目つきで永慈を見上げる。

「穂乃羽ほどじゃないけど、私、そこそこ人気者なんだよ。今だって、皆の目を逃れてようやく会ってるの。おと――のために」


 永慈は明依と目を合わせた。

 見つめ合う。


 最初こそ決意を感じさせる表情で視線を受け止めていた明依だったが、一切動じない永慈の真っ直ぐな瞳に根負けし、赤面しながら視線を外した。

「明依」

 永慈は言った。

「学校ではともかく、こういう家族の場では『お父さん』と呼びなさい」

 はぁぁ……と深い深いため息が明依から漏れた。再び兜をかぶる。


「不公平。慧の奴にはどうしてそれ言ってくれないのよ」

「お前まで呼び名を変えられると、お父さん哀しい」

「あ、ずる。それめっちゃ狡い」

「大人だからな」

「ふんだ。どうせお父さんの大人っぷりなんて、昴成おじさんには全然敵わないんだから。狸寝入りしてたって、お父さんはバレバレよ。すぐ態度や顔に出るし」

「……やっぱ病室でのこと気付いてたか?」

「娘ですから」

 顔をつんと背けながら明依は言った。


 永慈は泉に背を向けた。そろそろ戻った方がいい時間だ。

「集合に遅れないようにするぞ、明依」

「え? まだもう少し時間あるでしょ」

「五分前行動。社会に出たら基本だぞ」

「ぶう。……はーい。ねえお父さん」

 呼びかけられ、振り返る。明依は水辺で両手を広げた。

「またこういう時間作ろうね。エリュシオンじゃなくっても」

 笑顔である。永慈も白い歯を見せてうなずいた。


 直後、背後の泉から巨大な水柱が立ち上がった。

 永慈と明依の、柔らかで温かな空気を切り裂くように。

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