第57話 始まり。巣立ち。叫び。
――世界が
すでに壊れかけていたエリュシオンが、ネメルムオスに触発されたように至るところで腐り始めていた。
エリュシオン全てを巻き込んだ、超大規模な腐界。
その影響は、エリュシオン入口付近に待機していた者たちにも察知できた。
「紫姫様! お急ぎください! 腐界がすぐそこまで迫っています!」
入口脇でトトリが大きく腕を振る。
一分一秒を争う状況に追い立てられながら、無事だった面々が斜面を駆け上がってくる。
紫姫。
明依。
穂乃羽。
そして――慧。
この四人。
「……永慈は、どうしたのです?」
トトリの問いかけに紫姫は答えられない。
トンネルの奥からは崩落の轟音が近づいてくる。それだけではない。溶けて煮えたぎる溶岩のように、モノの形そのものを維持できなくなっている。
最後尾を走っていた慧が不意に速度を緩め、振り返った。トトリには、彼がどのような気持ちで、どのような表情を浮かべて、エリュシオンの崩壊を見ているのかはわからなかった。
確実に言えるのは、このままではこの場にいる全員が危ないということだ。
「早く!」
誰ともなく声を上げる。慧の動きは鈍い。
彼の元へ穂乃羽が近づく。彼女は目を覚ましていたが、ここまでの疲労と傷の影響か足下が覚束ない。慧の数歩手前で座り込んでしまった。
トンネルの奥から崩壊の足音がする。絶望的な空気が吹き抜け、精神を揺らす。
慧は穂乃羽の傍らに跪くと、彼女の肩を抱いた。
そのまま――動かない。
崩壊は、溶けゆく世界は、ついに視界いっぱいを覆うほど巨大な津波となって目前まで迫った。
明依は、紫姫の手を振りほどいて駆け出した。親友と弟の腕を引っつかみ、無理矢理にでも入口へ導く。
崩壊の津波から逃れるには、あと数歩足りない。
絶叫が交差し、誰が何を言っているのかもわからないくらい、その場の一人ひとりの体感時間が引き延ばされる。
明依と、穂乃羽と、慧は――無事だった。
崩壊に飲まれる直前に、力強い手によって入口まで運ばれたのだ。およそ人間とは思えないパワーとスピードで。
「永さん!?」
紫姫が驚愕を込めて叫ぶ。少女たちを助けた男――永慈は叫び返した。
「走れ! 走れ!」
聞き間違えようのない、よく響くバリトンボイス。
抗いがたい声の力によって、明依を始めとした一行は洞窟内を駆けた。残っていたのは永慈たちが最後だった。
洞窟を抜けると、『灯台』のメンバーがずらりと並んでいた。永慈たちが脱出するのと入れ違いに前に出て、結界の魔術を施す。
紫姫たちだけでなく、亜人のトトリやシタハルも肩で息をする中、永慈は汗一つ見せずに洞窟の出入口をじっと見つめていた。
明依が永慈の裾を引く。彼女は瞳を揺らして見上げてきた。
「本当に……お父さん?」
「ああ。心配かけたな、明依。大丈夫か?」
「お父、さん……っ!」
すがりつく娘を永慈は抱き返す。
驚愕から覚めることができないでいる紫姫が何度も首を振る。
「けれど、どうして……永さんは確かにあのとき、ネメルムオスに飲み込まれて」
「生きてるよ、俺は。どうしてかはわからないが、こうして五体満足でいる」
信じられない、とミツルギのリーダーは何度もつぶやく。
慧がおもむろに永慈の前に立った。彼の隣には穂乃羽が寄り添う。
「なあ。あんたを飲み込んだネメルムオスは、どうした」
「消えたよ。俺が目を覚ましたときには、消えていた」
「……はっ。なるほどね」
「慧クンは……何か知っているのですか?」
穂乃羽が尋ねる。これ以上エリュシオンに関わらないで欲しいという願いと不安を滲ませた声で。
「ネメルムオスは、『始まり』のモンスターなんだよ」
慧は肩をすくめた。
「俺があいつを従うことができたように、あんたはネメルムオスを我が物とすることができたんだ。俺はわかる。あんたはたった今、生まれ変わったんだ」
「生まれ変わった、か」
「わかるだろ? あんたなら」
永慈は左手を目の前に持ってきて、握った。拳に宿る確かな力を、活力を感じる。
ネメルムオスに食われたときに失った身体の感覚。
そこから何か大きなうねりが流れ込んできて、身体を満たした感覚。
思い出す。
もしかしたらこれが、利羌が言っていた『完全な人間になる』ということなのだろうか。
けれど喜びは乏しい。それよりも気になるのは――。
永慈と慧の視線が交錯する。慧が言う。
「あんたが生まれ変わったなら……俺も生まれ変わらなきゃな」
「慧クン」
穂乃羽が強く袖を引く。
周囲がざわめいた。
「くそっ! まずいぞ、抑えきれない!」
「腐界が来る……!」
『灯台』の精鋭たちが悲壮な覚悟を持って洞窟の出入口に群がる。彼らは持てる最新の技術を使って腐界を抑え込もうとしていた。
永慈は感じる。今はまだ静かな洞窟の奥から、凄まじい勢いで腐界が拡大している様を。
エリュシオンそのものが腐界と化している。その規模は、この場にいる全員の想像を超えたものになるはずだ。
にわかに緊迫感を増す現場で、永慈と慧の二人だけが目に静かな色をたたえている。
「慧。行くのか」
「俺はもう、あんたを殺そうなんて言わねえよ。やりたいこと、今、はっきりわかったからな」
「そうか」
「俺はエリュシオンで生きるよ。お別れだ」
「独り立ちしたからって、家に帰ってきちゃいけないことはないんだぜ」
慧は笑った。
「俺の願い、最後まで聞いてくれてサンキューな。……親父」
「おう」
手と手を打ち合わせた。
慧が踵を返す。
穂乃羽がさらに強く裾を引いた。何度も首を振る。慧は白い歯を見せて微笑み――それは永慈とそっくりな笑い方だった――、穂乃羽の手をやんわりと払った。
「俺はエリュシオンにいる。落ち着いたら、また話そう」
「慧クン!」
穂乃羽の声を背に受けて。
唖然とする『灯台』の人々の脇を抜け。
慧は悠然とした足取りで洞窟の奥に消えていった。
「……この」
淑やかな穂乃羽が初めて叫んだ。
「バカ野郎ッ!」
――それから間もなく。
山穏神社エリュシオンの腐界化は驚くほど速やかに収まった。
その後、『灯台』が調べたところ――エリュシオンの入口は綺麗に消え去っていたという。
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