第10話 変わらないなら

 退院のときが来た。

 病院の出入り口で、明依と並んで頭を下げる。

「お世話になりました」

「何かあればいつでも連絡ください。できるだけ対応しましょう」

 浦達医師はそう言って、事務室の奥へと引っ込んでいった。平日の午前中。大病院の待合ロビーは老若男女の患者であふれている。

「忙しそうだし、行こっか」

 明依に促され、永慈は無言で歩き出した。


 眠れていないせいか、あるいは身体異常の影響か、リュックが以前より重く感じる。

 明依は永慈の数歩先を歩いている。タクシーで帰るなんて贅沢はできない。病院までは公共交通機関と徒歩だ。明依はわざわざ学校を休んでまで迎えに来てくれた。交通費は彼女自身の少ない小遣いからだろう。

 明るく振る舞いたいという気持ちが湧き上がってきた。それは義務感にも等しかった。


「やれやれ。寝る子は育つと言ったが、寝過ぎて逆に若返っちまったよ」

 明依が振り返った。少し安堵した表情をしていた。

「身長まで縮んじゃうなんてびっくりしたよ。今百八十センチくらい?」

「今朝身体測定したときには百七十八センチだった。慧に抜かれちまったよ。まあ、ちょっとマッチョな高校生で通るかな。お前はどう思う?」

「あはは。うん、イケるイケる。全然違和感ない」

「じゃあ仕事辞めて高校に入り直そうかな」

「え、ホント!?」

「まずもって転入試験に受からない自信はあるが」

「そこは頑張ってよ」

「冗談だって」

「ま、そだよね」

「こんな姿になっても金は稼がなきゃならん。通院費もある。その上で少しでも蓄えを残しておかないと、お前たちが……あ」

 気がつくとネガティブな話題になっていた。


 陸橋のたもとで明依は立ち止まった。永慈に背を向けたまま、後ろ手をもじもじとする。

「私は平気だよ」

 振り返った明依の顔にはえくぼが浮かんでいた。

「たとえ貧乏でも、お父さんの姿が変わっちゃっても、大丈夫。私は平気。だってお父さんは生きているんだもの。お父さんがお父さんなら、私は大丈夫なんだよ」

 ポニーテールを踊らせて、軽快に陸橋の階段を上っていく。

 高層ビルの窓ガラスに反射した陽光が、明依の周辺をまぶしく彩る。


 その神々しいまでの姿を見て――。

「あと一年なんだ」

 衝動的に、口走っていた。

 臓腑ぞうふの奥から熱い焦燥感がたけり狂いながら湧いてきて、理性に命令する。言うな。誤魔化せ。明依を悲しませてはならない。断じて。


 振り返った明依に対し、永慈は陸橋のたもとで土下座した。額を舗装道路に打ち付ける。

「医者に言われた。身体異常の影響で、俺の余命は長くてもあと一年だと。ずっとお前と一緒にいることも、お前に何かを残してやることもできなくなった。すまん。本当に……すまん!」

 叫んだ。

 時間が凍り付いたようだった。

 通行人の革靴の音が永慈を避けるように遠ざかっていく。明依の声も足音も聞こえない。永慈は、まるで天の裁きを待つ罪人のような心持ちであった。


「それは……本当なの?」


 ようやく降りてきた愛娘の言葉に、永慈は即座に返した。

「本当だ」

「治るの?」

「治らない」

「嘘」

「嘘じゃない」

「お母さんだけじゃなく、お父さんもいなくなるつもり?」

「すまん!」

 再び、二人の間に沈黙が降りた。


 明依の靴音が近づいてくる。すぐ側にひざまずく気配。永慈は顔を上げた。

 明依の手が視界一杯に広がり、何かが額に押しつけられた。絆創膏だった。

「ちょっと血が出てた」

「明依……」

「いつも持ってるんだ。これ、お父さんの真似」

 一生懸命笑おうとしている。頬を上げてえくぼを作ろうとしている。実際は唇が震えて、今にも泣き出しそうであった。

「ごめん。いきなりすぎて気持ちの整理がつかないの。どんな顔してるか、自分でもわかんない」

 けどさ、と彼女は立ち上がる。

「ひとつだけ、確かなこと見つけた。お父さんは変わってないんだよ。普通さ、余命一年の人が土下座して謝ったりしないよ。別に悪いことをしたわけじゃあ、ぜんぜん、ないのにさ」

 陸橋を再び上がっていく。

「今は私、こんな情けない顔してるけど……もうちょっとだけ待ってて。また……元通りになるから。私言ったもんね。お父さんがお父さんなら、私は大丈夫なんだよって」

 立ち止まる。うつむき、天を仰ぎ、振り返りかけて、また階段に視線を落とす。

「私、穂乃羽ほのはのとこに寄っていくから。……ごめん、お父さん」

 そう言い残し、明依は駆け出した。


 永慈は起き上がる。

 大きく息を吸い込んで、一発、思いっきり自分の側頭部を殴りつけた。

 ネガティブな感情を、痛みとともに忘れ去る。


 娘にあんな顔をさせて、何が父親か。ふざけるな三阪永慈。


「決めたぞ。明依、慧」

 明依のために。慧のために。

 残された時間の全てを使う。

 残してやれるモノがないのなら、これから作る。

 何が何でも。どんなことをしてでも。

 人間として不適格だと落ち込む時間など、もう一秒たりともあってはならない。

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