第45話 訪れる身体の悲鳴

 慧の姿は闇の奥へ消えた。沼水しょうすいさざなみは、息子がついさっきまでここに立っていたことを証明していたが、それも間もなく消え、鏡面の静けさを取り戻す。

 永慈はうつむいていた。色を消した顔が、鏡の水面と強い月光によって足下に映し出されている。

 言葉とは、何て恐ろしいものだろうと彼は思った。


「永さん」

 紫姫が――おそらく無意識のうちに――いつもの呼び方で永慈を気遣う。

 慧の言葉がまだ頭蓋の中で反響し続ける中、永慈は理性的な思考をかき集めた。

「……急いで戻りましょう。防具を着ていない昴成の体調が心配だ」

 自分の言葉なのに遠く聞こえる。水に溺れてしまったようだ。


 昴成を背負い直す。ずっしりと両膝に負荷がかかった。いくら昴成が細身でも、筋肉の付いた大の大人の身体は重い。それを見たシタハルが短く申し出る。

「俺が運ぼう」

「いや。大丈夫。彼は俺に運ばせてくれ。……頼む」

 最後の一言に感じるところがあったのか。シタハルはそれ以上突っ込んではこなかった。


 戦闘現場にトトリだけを残し――アンノウンの素材回収と周囲の探索のためだ――、永慈たちは元来た道を引き返した。

 足取りは、行きよりも格段に悪くなっていた。

 一歩。一歩。永慈は足を前に出し、踏み込み、蹴り出してをひたすら繰り返した。『歩みが遅い』という一言では、この切実な苦しみと没入感は表現できない。


 隣では紫姫とシタハルが話し合っている。「このエリュシオンは――……」「外部組織からの――……」などといった会話が耳に侵入してくる。聴覚が馬鹿になってしまったのか、断片的にしか認識できなかった。

 身体が悲鳴を上げることに慣れすぎて、限界まであとどのくらいなのかわからない。ただ、次の一歩で心臓が止まっても不思議ではないという、妙に冷静な確信があった。


 永慈は眉間に皺を寄せた。次いで目をこする。がたまったときのように視界が滲んでいた。紫姫たちの話し声はもう聞こえない。単に彼女らが口を閉ざしたのか、それとも本当に身体がおかしくなったのか。

 気合いを入れ直して前を向く。


 少年が、見えた。


 視界が全体的に二重写しにぼやける中、その人物の輪郭はやたらとはっきりしていた。記憶にあるシルエットだった。

 光る肌。細い身体付き。そして身にまとう奇妙な雰囲気。

 最初の入口が崩壊する直前に現れた、あの少年に間違いなかった。


 永慈は、無意識のうちにつぶやいた。

「ネメルムオス」


 直後――。

 謎の少年の姿は霧となってかき消え、次いで永慈の視界全体がブラックアウトした。



 ――そのとき永慈は夢を見た。

 寝床で見る幸せな夢と違うのは、そこには色彩も音もストーリーもなく、ただ真っ黒な背景に白い線で何かが描かれては消えていくだけの、いっそ恐怖すら感じるほどシンプルな『絵』であったことだ。

 

 白い輪郭線だけだから、何を表現しているのか永慈にはわからない。いや――自分自身がそれを読み取ることを避け、敢えて「わからない」と思い込みたがっているだけなのかもしれないと彼は考え直した。

 黒の背景と白の輪郭で描かれた夢の世界は、消えかけの白色電灯のように、じり、じり、と音を立て、永慈から離れていった。



 ――震動で、目を覚ます。

 目をしばたたかせた永慈が、まず頭に思い浮かべたことは「天井が低いな」だった。手を伸ばせば余裕で届く位置に天井がある。

 がたん、と強く揺れ、永慈は上体をよろめかせた。肩と側頭部がにぶつかる。

つッ」

「永さん。目が覚めましたか」

 に座る紫姫が声をかけてきた。永慈はぼんやりと視線を動かす。


 車の後部座席に、永慈は毛布に包まれた状態で寄りかかっていた。髪先が水気を帯びて額に張り付いている。隣では同じような様子の昴成が、倒した座席の上で横になっていた。六人乗りのミニバンタイプ。内装には見覚えがある。昴成の車だとわかった。


「体調はどうですか」

 運転しながら紫姫が尋ねる。永慈はわずかに呻いて「かなり辛い」とつぶやいた。インフルエンザと貧血が同時に発症したような、座っているだけでも苦しい状態であった。

 普段は豪胆な永慈が素直に窮状を訴えるのは珍しい。紫姫もその辺りは承知していた。

「休んでいてください。今、久永ひさながさんのご自宅に向かっています。彼を降ろしたら、もう一度癒やしの魔術を施しましょう。少し楽になるはずです」

「ああ……ありがとう」


 頭痛に顔をしかめながら、隣で横になる昴成を見る。

 目立った外傷はなかったが、不安の方が先に表に出た。

「昴成は……大丈夫なのか……」

「安心してください。命に別状はありません。お二人が眠っている間に洗浄を済ませたので、エリュシオンの後遺症もないでしょう。久永さんは薬品で眠らされていたようです。おそらく、もう少しすれば気がつかれるでしょう」

「そう、か……よかった……」

「あの。永さん、慧クンのこと――」

 言いかけ、「いえ、何でもありません」と濁す。


 窓の外では、外灯の青白い光に混ざり、家々の明かりが後方へと流れて行っていた。閑静な住宅街。ここも見覚えがある。

 だが永慈は、自分がどこか未知の場所に迷い込んでしまったような錯覚を振りほどけなかった。


 左手をさする。

(今日、何日目だっけ)

 意志のこもっていない目で、見る。

 左手の文字は、洗浄のために消えてなくなっていた。

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