第3話 三十九歳父の日常

「――さん。お父さん、起きて」

 揺り動かされ、三阪みさか永慈えいじは目を覚ます。

 どうやら日記を書いている途中に寝落ちしてしまったようだ。


 顔を上げると、愛娘まなむすめ明依めいの心配げな表情がすぐ近くにあった。つぶらな瞳に卵形のフェイスライン。額から唇までの絶妙なバランス。親の贔屓目ひいきめを引いても十分に愛らしく、魅力的な容貌をしている。

 もっとも本人に言わせれば、十七歳の割に童顔なのが気になるらしい。理想は、今は亡き母親のようなキリリとした大人の女性なのだと、いつだったか愚痴ぐちっていた。


「珍しいね。お父さんが寝落ちなんて」

「寝る子は育つってな。はっはっは」

「それ以上デカくなってどうすんの。馬鹿言わないでってば」

 背中を叩かれる。しっかり筋肉の詰まった小気味よい音がした。

 永慈は今年で三十九歳。同年代の親父たちと比べ、一回り以上体格が良い。

「やっぱり最近疲れてるんじゃない? 公務員なのに、いつも遅いじゃん。帰ってくるの」

「貧乏暇無し。公僕こうぼくにも色々あるってことだなあ」

「もう。他人事みたいに。一応心配してあげてるんだからさ」

 呆れる明依に、「大丈夫だ」と白い歯を見せて笑う。

「お前たちのためなら、命を削ったって惜しくないさ」

「……相変わらず、ヤバい台詞を堂々と言ってくれちゃって」

「嘘じゃないぞ?」

「それがヤバいんです。さ、ご飯できてるよ。食べよう」

 立て付けの悪いふすまを開けて、明依が隣部屋に移動する。


 数軒先の道路からサイレンが聞こえ、永慈は窓を見た。築三十年のボロアパートだから、今時珍しい木枠の窓だ。

 陽は沈みかけ、空は濃い紫色になっている。

 しばらくサイレンの音に耳を傾ける。

「近いな。この辺りに『入口』はなかったはずだが」

 お父さーんと呼ぶ声がして、永慈は少し寝癖の付いた頭をきながら部屋を出た。


 居間のローテーブルには、質素だが温かい料理が並んでいる。おかずは三人分。うち一つが、半分ほど残して放置されていた。

 永慈は、少し寂しそうに目を細めた。

けいは、もう食べちゃったか」

「あいつ、またどっかに行ったのよ!」

 一方の明依は、憤然ふんぜんと腰に手を当てた。

「ちょっと前に家出から帰ってきたと思ったら、またこれ! お父さん、一度ガツンと言った方がいいよ!」

「おう。料理をお残しするなんて許されんよな」

「確かにうちにお残しする余裕なんてないけど、そうじゃなくて」

「ま、心配すんな。あいつはあいつで、いっぱしの男としてやりたいことがあるんだろ。顔見りゃ、慧が単に遊び歩いてるわけじゃないってのはわかる」

「……お父さんはそう言うけど。慧、お父さんのこと『あいつ』呼ばわりしてるし。昨日だってひどいこと言って――」

「明依」

 畳に座り、食事の前に手を合わせる。

「俺のことは気にするな。お前はお前の、慧は慧の好きに生きればいい。それを見守ることができれば、俺は満足だ。他に何もいらん」

「……」

「いただきます」



 夕食後。

 終始浮かない表情のまま、明依はバイトに出かけた。知り合いの子の家庭教師をしているのだ。

 一人残された永慈は洗い物に取りかかる。

 家にはテレビがない。隣も空室なので、静かなものだ。こんな環境では家出したくなる気持ちもわかる。

「せめて、大学くらいは行かせてやりたいよな」

 それくらいの財産は残してやりたいと、永慈は常日頃から思っている。

 今の仕事に就いたばかりのときは、給料の低さに転職も考えた。だが、そこは腐っても公務員。残業代はきちんと出るし、家族のために時間を作ることも比較的容易たやすい。三十九歳という年齢もあるし、今の仕事を紹介してくれた親友への義理もある。


 蛇口を閉め、水を止める。

「ま、何とかするさ。何事も忍耐と根性。世の中、やれば何とかなるもんだ」

 良くも悪くも、この大らかさと前向き思考が永慈の特徴だった。


 部屋に戻って日記の続きでも書こうとしたとき、テーブルの上に置いた携帯電話が鳴った。何の飾り気もない、折りたたみ式の黒携帯。職場から支給されたものだ。

 仕事柄、時々ある呼び出し。

 液晶画面には、親友の名が無機質に浮かんでいた。


『すまないね。休み中に』


 声を聞くだけで、知的でスマートな姿が目に浮かぶ。

 プライベートを邪魔されたとは露ほども思っていないにこやかな笑みを浮かべ、永慈は応じた。

「それはお前だって同じだろ、昴成こうせい。で、どこのお偉いさんがヘマしたんだ? サイレンが聞こえたぞ。おおかた、マテリアルの保存期間を誤魔化して腐界が――」

『状況が違う』

 永慈は眉をひそめた。

『山穏神社でカテゴリー2が発生した。すぐに来て欲しい』

 

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