第23話 賑やかな車内

静希の咳払いが聞こえる。

「まず第一に認識しなければならないのは、エリュシオンは単なる楽園ではないということだ。注意と準備を怠れば身体に悪影響が出る。それだけでなく、我々の世界にも害を及ぼしてしまうことだってある。腐界という形でな。エリュシオンにあるモノは持ち帰ってはならない。鉄則かつ常識だ」

 永慈の眉がぴくりと強ばる。『腐界』の単語が、あのときの光景をフラッシュバックさせた。

 静希はベテラン講師のように泰然としている。隣の晶翔はつまらなそうにしている。おぼろげに悟った。彼らはきっと、腐界の恐ろしさを肌で感じたことがない。それだけ、これから向かうエリュシオンは安全だということだ。永慈は力んでいた眉間を緩めた。


「エリュシオンは異世界。我々の世界とは違う法則が働く。詳しいことはいまだ不明な点も多いが、我々人間が向こうで活動するためには、何よりも装備が――特に身体を守る防具が重要だ」

 静希が座席越しに一枚の紙を寄越よこす。

「我がECEの基本装備を図示したものだ。男子も女子も関係なく、まずはこの専用のオーバーオールを着用する。校章入りの特注品だ」

「ダサいッスよねえ。おっさん先輩もそう思うでしょ」

「うるさいぞ常友。重要な装備にケチをつけるな。それに、ウチの学校のは他よりはスタイリッシュなんだぞ。……まあ、それはともかく。このオーバーオールは、亜人でいうところの光の肌ライトスキンの働きをする。エリュシオン独特の大気から身を守ってくれるのだ。ああ、独特の空気と言っても、呼吸は問題なくできるし、多少、肌を晒したからと言ってすぐにどうこうなるものではないから心配するな。が、あまり無防備に、長時間エリュシオンの空気に触れていると体力が奪われる。エリュシオンに入境する際は頭から足の先まで、専用装備で固めるのが基本だ」

「まるでどっかの先住民族みたいになるッスよ。踊りますか。ウッホウッホ――たっ」

「装備の着用法は現地に着いてから説明しよう。それから、これは大事なことだから必ず守れ。エリュシオンに入ったら、。なぜなら――」

「消化できず、最悪体内で腐界化するから」

 永慈が言葉を継ぐと、静希は「ほお」と感心の声を漏らした。

「よく知っているな。マニュアルを読んだのか」

「そんなところです」

「結構。勤勉な下級生が入部してくれて嬉しい。どこぞの後輩のように、初回で早々騒ぎを起こす心配はなさそうだ」

「いやあ。アレはマジ死ぬかと思ったッス。皆でよってたかって吐かせたり出させたり。オススメしないッスよおっさん先輩。あっちの集落の食いもんは、見た目は美味そうでも全然味がしないんだ」

 あっはっはと全然反省したようには見えない笑顔を見せる晶翔。永慈は小声でつぶやいた。

「ということは、深津浜ふかつはまのエリュシオンか」

 

 エリュシオンに人間が定住することはまずない。集落があるとすれば、それはエリュシオンの環境に適応できる亜人の集まりだ。

 福城市内で亜人が暮らすエリュシオンの数は限られている。中でも『集落』と呼べるほどの規模があって、かつ安全が確保されているのは深津浜に入口があるエリュシオンだけだ。深津浜には立派な施設があるし、学生が部活動で訪れるには最適の場所だろう。


「深津浜研究所の風呂に入るのは久しぶりだなあ。所長が凝り性で、『単なる銭湯にはさせん』と息巻いてたっけ」

 十年ほど前の記憶を懐かしむ。


 ふと気がつくと、静希が座席の上からこちらを見つめていた。

「……お前は何者だ」

「え?」

「我々が向かう先は確かに深津浜。そこにある研究施設にも立ち寄る。これは行程表にあるから、知っているのは理解できる。だがそこの所長の話は、よほど通い詰めている者でないと知らないことだぞ。第一、常友の話だけで深津浜を思いつくとは、とても初心者とは思えん」

「もしかしておっさん先輩って、実は凄ぇヒト? 秘密のエージェントだったり」


(ちょっとまずかったか)


 驚き半分、怪訝半分の二人の視線を受け、永慈は頭を掻いた。

「あー、ほら。あれだ。テレビで見ました」

「その強ばった顔で信じろという方が無理だぞ」

「おっさん先輩ってあんまウソが付けないタイプみたいッスねえ」

「よく言われる。何とかしたいが、どうにもできん」

 大真面目に答えると、晶翔は声に出して笑った。驚いたことに静希も肩を震わせている。周りの生徒が驚いたように静希を見ていた。


「まあ、いい。博学だからといって害になるわけではないしな。見逃してやる。その代わり、後は自分でやるんだぞ」

「了解」

「あー、楽しみだなあ風呂」

 晶翔がウキウキした表情になる。

「明依先輩とか穂乃羽先輩とか、きっと風呂上がりはヤベェ感じに――って、痛! 痛い痛いゲンコツはカンベンしてくださいよ、別にのぞきに行くとか一言も言って――あ痛!? え、ちょ、おっさん先輩まで!?」


 賑やかなまま、バスは目的地へと進んで行った。

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