第51話 よい生を

 明依が口許に手を当てた。

 笑い飛ばそうとした、のだろう。

 しかし、彼女の細い喉からは引きった呻きすら漏れてこなかった。呼吸すら止まってしまったかのようだった。

 永慈は左手を見た。滔々とうとうと語る浦達の幻をその向こうに見て、反駁はんばくする。


 この手は、この身体は、人間のものではないという。

 自分が命より大事だと思っている娘は、本当は娘ではないという。

 それどころか、むしろ自分の方が娘の幻想から生み出された存在で。

 三阪明依のために生まれてきたモノだという。

 

 そして息子は。三阪慧は。

 この事実に苦しみ悩んだ末に、永慈と決別することを選んだ。

 自分の存在意義を見出すために。


 左手は最初、激しく震えていた。

 だが浦達の言葉をひとつひとつ噛みしめるたび、その震えは収まっていった。


 永慈は、三阪明依に望まれて生まれた。彼女のために生まれた。

 ならば――今と何が変わると言うのだろう。

 慧は、自らの出生の秘密に苦しんでいた。

 ならば――お前はお前のままに生きていいのだと、そう伝えることに何を躊躇う必要があるだろう。


 残り少ない時間を大切な彼らのために使う。そのことに、何の変わりもないのだ。

 永慈はそう――気付くことができた。

 だから自然に口を突いて出た。

「浦達先生。ありがとうございます」

 明依は、信じられないという目で永慈を見た。

 浦達は、目を閉じて天井を向いた。涙をこらえる仕草によく似ていた。


 そのとき、看護師が間仕切りカーテンを払って浦達の隣に並んだ。いつの間にか病室を離れていたようだ。

 看護師の耳打ちを受けた浦達は眉間に皺を寄せた。これまで飄々ひょうひょうとした顔しか浮かべなかった彼が初めて見せる苦しげな表情だった。

「情報提供がありました。山隠神社に新しくできたエリュシオンで、大規模な抗争が発生したようです。あなたの息子さんとご学友が巻き込まれたと」

「なんですって」

「先ほどお話しした、私の仲間だった男からの情報です。彼は今、息子さんと共に行動していると言っていました。おそらく、真実でしょう。彼は息子さんの悲願を達成させると、それが贖罪だと伝えてきました」

 視線と視線が一直線にぶつかる。


 行かれるのですか――言外の問いかけに永慈は行動で応えた。シーツをまくり上げると、裸足で病室の床に立つ。自分の足なのに非常に頼りなく感じた。身体は熱に浮かされたように覚束おぼつかない。その分、思考にはしっかり血が通っている。


 永慈の前に浦達が立った。彼は懐からペンダントを取り出した。

するならば、今を置いてないでしょうね」

「これは?」

「『宝珠』のペンダントです。あなたが最初に入院していた折、三阪慧さんからお預かりしました。私に処分を任せる、と」

 永慈の手を取り、左手に握らせる。

「私も中身はわかりません。ですが、ご希望であればこの場で宝珠化を解除しますが、いかがしますか」

「慧が、これを」

「ええ。おそらく、あなたがたご家族にとって大事な物だと思います。持っていたい。持っていたくない。二つの感情のせめぎ合いがあったからこそ、私に預けられたのでしょう」

 涙滴るいてき型で、親指の先ほどの大きさのペンダントトップ。薄い緑の、いっそ地味とも言える色合い。

 息子が今どんな気持ちなのか――これを見ればわかるかもしれない。

「先生……お願いします」

 わかりました、と浦達が手を伸ばす。


 そのとき、横から別の手が差し出された。明依だった。彼女は震える両手で、永慈の左手ごとペンダントを握りしめた。

「ごめんなさい……色んなこといっぺんに言われて……」

「明依……」

「これ、見るの怖い……」

 永慈は明依の頭を抱いた。体温を感じる。匂いを感じる。ずっと記憶にある通りの、慣れ親しんだ存在感。

 ペンダントとともに彼女の手を握り返す。そして永慈は、そっとペンダントをポケットにしまった。


 遠慮がちに看護師が声をかけてきた。

「三阪さん。今、知人の方々がお越しになられているようです。『ミツルギ』と名乗られていました。病院の入口で待っていると」

「わかりました。すぐに行きます」

「待って!」

 明依が声を上げた。唇を引き締め、眉をつり上げている。毅然とした表情――だが、それが見せかけであることに永慈はすぐに気付いた。彼女の瞳は大きく揺れたまま、声もわずかに上ずっている。

「私も。私も行く」

「明依。さっきの先生の話を聞いて――」

「わかってる! 危ないのは……わかってる。けど、私だけここに残るなんてイヤ。ひとりだとどうかなってしまいそう……」

 握った永慈の手を、彼女は自らの顔の前に持っていった。額をこすりつけるようにして、何度も深呼吸する。


「それに」とつぶやく。

「私の大事な友達も、散々面倒をかけてくるバカ弟もいるんでしょう。私は……私は、三阪明依だもの。ここで引いたらゼッタイに駄目」

 自分に言い聞かせるような、あるいは祈りのような、切実な言葉だった。

 永慈はうなずいた。


 浦達が数歩下がり、道を空けた。

「それがあなたがたの決意なら、もう何も言いません。お急ぎください。どうやら状況はかなり切迫しているようだ。よいせいを」

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