第9話 残せるモノ

 この日の夕食は、何を口にしたのか覚えていなかった。美味うまかったのか不味まずかったのかすら思い出せない。

 午後七時五十分。間もなく面会時間が終了する時間である。

 すでに街は夜のとばりに包まれていた。


 ――家族には、寿命のことはまだ伏せておいてくれと頼んだ。


 浦達医師も、看護師も、そして昴成も、外面そとづらの作り方を身につけた大人であったから、着替えを持って戻ってきた明依の前でも、いつも通りに振る舞ってくれた。その間、永慈は寝たふりを続けた。自分が良くも悪くも愚直で顔に出やすい男だという自覚があったからだ。

 奇跡的に一命を拾うことができた上、見た目は若々しくなった父親にむしろ明依は舞い上がった様子で、明日退院できると聞くと喜んでいた。


 今、病室は静かである。永慈以外に誰もいない。

 まるで世界から責められているようで、落ち着かない。初めての感覚だった。


 右手を開く。閉じる。てのひらと手の甲を交互を見る。血色は良い。肌艶はだつやも問題ない。身体に痛みもなければ、苦しさも感じない。

 なのに、あと一年で死ぬという。もしかしたらもっと早いかもしれない。

 余命宣告の後、呆然とする永慈に代わり昴成が別室で浦達医師から詳しい話を聞いてくれた。そして戻ってきた彼は開口一番に「これからのことを考えよう」と言った。そのとき永慈は、医師の宣告が真実なのだと実感した。

「さすがに、こたえるなあ」

 まだ気持ちの整理がつかない。これも、初めての経験だった。


 病室の扉が開く音がした。ややあって靴音が近づいてきた。

 間仕切りカーテンの向こうから、すらりと背の高い青年が顔を出した。

「まだ起きてたのかよ」

「慧……」

 永慈は瞠目どうもくした。息子、三阪慧は窓際の壁に背中を預け腕を組んだ。

 艶やかな髪、はかなげで美しい横顔、細く引き締まった身体、一歳違いの姉よりもはるかに高い身長。多くは母親から受け継いだものだった。


 気付かれないように息を整え、永慈は笑みを浮かべた。

「お前の方から見舞いに来てくれるなんてな。父さん嬉しいぞ」

 切れ長の目が永慈を捉えた。

「大人って、いつもあんたみたいに振る舞わなきゃいけないのか?」

 小声でもよく通るのは永慈と似ている。

 永慈が言葉に詰まると、慧はばつが悪そうに視線を外した。

「いや……悪い。あんたも大変だってのはわかってる」

「気にすんな。慧の言うことも、あながち間違っちゃいない。大人はずるいからな。ま、今の見た目は高校生だけど」

「見た目、か」

 組んでいた腕をほどく。慧は永慈に正対した。


「非常識って自覚はある。クソ薄情だってこともわかってる。けどこんな機会じゃなきゃ言えないと思ったから、今日来た」


 永慈はもうひとつ未知の経験をした。

 慧の瞳から感情が読み取れない。それがひどく怖かった。


「俺は、あんたを父親とは認めない。あんたはもう普通の人間じゃない。そんな男と血が繋がっているなんて、俺は絶対に認めない」

「……」

「俺はあんたとの関係を断ち切る。ずっと、あんたにそう伝えたかった」

 沈黙が降りた。


 慧は取り乱すでもなく、冷淡にさげすむでもなく、ただ真っ直ぐに永慈を見据えていた。そのことが慧の言葉の正しさを――今日に至るまで胸に秘め続けた想いであったことを、永慈に強く印象づけた。

 だが父として、聞かずにはいられなかった。


「慧……どうして」

「俺は」


 口をつぐんだ慧は、そのまま踵を返した。間仕切りカーテンの向こうに姿が隠れ、病室の扉が乱暴に開かれる。


「俺は生まれ変わりたいんだ」


 扉が閉まった。足音はすぐに消えて、聞こえなくなった。

 慧の口から『答え』を聞いても、永慈はベッドから動けず、同じ姿勢のまま繰り返した。

「どうして」


 ――その日は一睡もできなかった。


 死の予感は心を弱らせる。自らの信念にヒビを入れる。

 自分は今まで子どもたちのために生きてきた。そのためならばどれほど時間をかけても、どれほど身を削っても構わない覚悟を持っていた。

 だが、いざ自分が死ぬとなったとき、子どもたちに残せるモノを何も持っていないと気付いた。

 残せるモノを作る時間もない。

 手渡す相手すら離れてしまった。

 何も残せない自分は――人間として不適格だ。


 永慈はシーツを噛み、声を押し殺して泣いた。妻に先立たれて以来の号泣であった。

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