8−6

 しかし周囲の風景は一変していた。湧水池の焚き火がどこにもない。見えるのは土の匂いがする巨大な石柱だ。頭頂部の装飾が打ち砕かれ、斜めに欠けていた。落下したらしい石があちこちに転がり、道なりに崩れた壁が続いている。恐らく遺跡だろう。

「怪我はないか?」

 重みのある声が触れていた胸を伝って聞こえ、安堵のあまり答える前に膝から崩れ落ちた。支えてもらいながら頷くと、ジークは女が消えた空に目をやった。

「あれが噂の女悪魔か。意味のわからんことを言っていたが……」

「ジーク……あの人の顔を見た?」

「いや。うねっていた髪に邪魔されて見えなかった」

 顔を覆う。呻きが漏れた。

(あれは――あれは……!)

 ジークが不意に「まずい」と呟いたかと思うと、プロセルフィナを外套で包んで立ち上がらせ、石柱が転がる遺跡へと走り出した。

 途端、背後から雨が迫り、砂に染みを作り岩を打った。ふたりで大岩が傾いでいる下に滑り込み、身体を寄せ合う。水が幕となって何も見えなくなってしまった。

「……ここはナリシュ遺跡?」

「そうだ。アルがお前の姿が突然消えたといって俺を起こしに来たんだ。外に出た途端冥魔に囲まれて、そいつらを追い払うと遺跡の方角が妙だったから、多分お前がいるんだろうと思って走ってきた」

 雨に当たるなよと言ってプロセルフィナを引き寄せる。冥魔が出現した後の雨は《死の庭》の呪いを含んで危険だ。長く雨に当たっているとなんらかの変調をきたしてしまう。しかしそうして彼を近くに感じているのに震えは止まらなかった。

 わからない。怖い。どうして。この国を脅かす女悪魔の顔は。

「プロセルフィナ?」

 ジークが尋ねた。身体が触れ合っているからその声がよく響いて聞こえる。甘やかす声音にかすかな真剣みを感じて、プロセルフィナは逡巡し、だが耐えきれなくなって本当のことを口にした。

「女悪魔……冥魔の女王の顔を見たわ」

 問い返される前に告げた。

「私と同じ顔だった」

 さあ……と風に吹かれた雨が紗のような音を立てた。

 濡れた砂の匂いはいっそう強くなって、石は洗われて白く光っていた。足元から迫ってくる水を見つめ、心を決めてジークに向き直る。

 唇を噛み締めて、しかし顔を背けないように彼を見つめ続ける。その瞳に映るのが自分以外の何物でもないことを信じるために。

(私は、だれなの?)

 あなたのもの以外にはなりたくない。

 でも過去の由縁が私を縛る。

 自分の顔がわからなくなりそうだった。今ここにいる自分は紛い物で、何一つ自分のものではないとしたら。

「私は……本当に人間なの?」

 ジークはプロセルフィナの腕を掴み「よせ」と低く言った。

「なぜ? あの冥魔もまたジゼルなら……」

「そうだとしても、もうそれはお前じゃない。ジゼルの運命まで背負わなくていい」

 プロセルフィナは薄く微笑んだ。

 優しい人。優しい言葉。けれどそれが本当に正しいとは誰にも言えない。

「私は、《死の庭》と護人の関係は、世界と人の約束なのだと思うわ。約束を反故にするならば代償を支払え、命で贖えと世界は言っているのだと思う」

「だからどうした。お前が本当にジゼルであっても、お前が代償を支払う必要はない」

 強い言葉、瞳が近くにある。炎を宿した宝石。生きることを求める光だ。

「……あなたは私に名前をくれた。名前を呼んで愛してくれた。あなたが今愛しているのは『プロセルフィナ』だって信じてる。だから、世界なんて守れるわけがないけれど、――あなたを守れるなら世界を守ってもいいわ」

 何か言おうとするジークの唇にそっと指を当てる。

 ジークは痛みの色を浮かべ、きつく感情を噛み締めていた。制止から解かれると、低く囁いた。

「それでも『俺のそばに』と望むのは、傲慢か?」

 いいえ。

 いいえ、ジーク。傲慢なのは私の方。

「…………その言葉が聞きたかったの……」

 後悔で顔を覆うのは甘えだと自分を律した。彼にこの、自己嫌悪で歪む顔を見てもらわなければならなかった。試すようなことを口にして、ジークの言葉を自分の望む形にして引き出した愚かさを思い知るべきだった。

「……そばにいたい。どこにも行きたくない。でもあなたを失いたくない。冥剣なんて、」

 それでも思いが溢れた。涙が、珠になる。

「冥剣と鎮め手なんて消えてしまえばいいのに。冥魔なんていなくなってしまえば。《死の庭》なんて、なくなってしまえばいいのに……」

 流れ落ちる雫を指先で拭ってジークが言った。

「行くな。――そばに」

 抱き寄せられた胸に顔を埋めながらも疑念は消えない。

 ――すべての歪みは七年前の《死の庭》の乙女ジゼルある。

 ジゼルとプロセルフィナ、そして冥魔の女王。世界に起こりつつある異変にはこの三者が関わっていることを、寄り添いあいながらも理解しなければならなかった。


 通り雨だったのだろう、雨はすぐに上がった。

 迎えを待つか遺跡を調べてみるか話し合い、少し見て回ることにした。

 ナリシュ遺跡は魔法の時代、魔法を使う者たちの神殿を中心に据えた場所だったそうだ。初代死の庭の乙女を讃える神殿だったが、彼女による封印が緩んだ頃、《死の庭》の強い呪いにさらされたことで滅んでしまったという。

 雲の合間に星が見える。その青白い光に照らされて石柱群が淡い影を作っていた。

「アルたちは心配しているでしょうね」

「それほど気にしなくていいと思うぞ。あちらにも剣の光が見えたはずだ。それにナリシュの人口泉とやらがあるんだろう? 確かめてみようじゃないか」

「何が映るかわからないのよ」

「だから見るんだろう。知ってしまえば抗う覚悟ができるさ」

 プロセルフィナは驚いたが、ジークの声は晴れ晴れとしている。

「だろう? 最悪な予言を聞いたならそれに抗おうと考えらえるようになる。俺はお前を失いたくない。だから見てやるんだ」

「……本当に?」

 こんな言い方ではだめだとわかっているのに、うまく言葉が出ない。

 失いたくない、その一言が嬉しい。でももっと胸をいっぱいにしたのは『抗う』という強い言葉だ。

「なんだ、本気にしてないのか? お前はいつもこういうことを真顔で言うくせに」

 笑って揺れる彼の背中に飛びつく。抱きしめた。

「うおっ!?」

「…………うん」

 今は笑うべき時だった。気持ちが伝わるように強く頷いて顔を擦り付ける。

 剣に自分の命を委ねていたジークからそんな言葉を聞くなんて思わなかった。

 わかっている、ジーク? あなたは自分に運命にも抗えると言ったのよ。

「負けないでいましょう。ずっと一緒にいられるように」

 ジークはプロセルフィナの手を一度ぎゅっと包んでから、なだめるようにぽんぽんと叩いた。

 やがて中心部と思しき最も瓦礫の多い場所に来た。崩れ落ちた壁を越えるとまた雰囲気が変わる。

「庭園、か?」

 ジークがそう推測した。リティ・エルタナ宮殿と重ね合わせたなら、超えたところは境界に当たる壁だろう。扉が付いていたなら鉄格子に似た金属製のものがついていたにちがいない。緑の気配はないがジークは足で地面を均し「堀があったようだな」と言った。

「水路が砂に埋まってる。本当に人口泉がありそうだな」

 雨のせいで気温がかなり下がったのか吐いた息が白くなった。

 堀に沿って歩いて行き、ジークが「こっちだ」と手を引くのに任せて歩いた。倒れた柱らしい岩場をぐるりと回ると彼が突然立ち止まる。何事かとその視線を辿って、あっと声を上げた。

「本当にあった……」

 円形の湯船のようなものがある。近づいていくと中には水がたゆたっているのがわかった。他にそれらしいものはないようだから、これがナリシュの人口泉なのだろう。真実の姿を映す泉だ。

 覗き込もうとして身体が動かなくなった。

 もし冥魔の女王の顔が見えたなら。

 だが握った拳に強く力を込めた。

(逃げ出さないで。知ることで抗うことができるんだから)

 そっと跪く。水面が小さく波立って銀色に光った。その他は、暗い。それほど深くないはずなのに底なしのように見える。吸い込まれそうな、なのに破裂しそうな溢れださんばかりの闇。何も見えない。何も聞こえない……。

「…………フィ……?」

 ジークの声や気配が波のように近づいて遠ざかる。踏みとどまなければと思って抵抗を試みた一瞬、強くなる引力で反発していたことを忘れた。

(私は、だれ?)

 繰り返した問いが水の中に消え、返ってくる。

 わたしはだれ……わたしはだれ……わたしは……。

 ――私は知っている。私が誰なのか、私の名前を知っている。

 私は生命。私は原初。すべての始まりと終わりは私の中にある。

 それは果ての果て、安らかで優しい流れのこと。振り返ると深い闇があり、彼方には清らかな光が輝いている。闇と光は巡り大いなる円環を描く。

 その完全なる世界を壊す者が現れた。そのとき私は目覚め、考え始める。

『お前は誰だ?』

 私は――『私』だ。

 水面が揺れる。無数の手が水を叩くように波紋が生まれ、渦と泡が生まれる。まるで鳴り響く音楽のよう。ごおおという唸りが高まった瞬間、すべてが静かになった。

 凪いだ水に、ゆらりと姿が浮かび上がる。

 金色の髪、青い瞳。霧か雪をかぶったようなくすんだ色。水に映ったプロセルフィナはまっすぐにこちらを見つめ、厳粛な面持ちで目を伏せた。そして目を上げたとき、彼女の頭上には輝くものがあった。

 宝冠だった。

「――……っあ!?」

 横殴りの砂に頬を叩かれ、顔を伏せた。ジークがすぐさま庇ってくれたおかげで砂まみれにならずに済んだ。

「大丈夫か?」

 何が起こったのかわからず惚けていた。長くて短い不思議な夢を見て目が覚めたかのようだった。ジークが立ち上がると外套から砂粒が落ちた。

「妙な風だったな。剣は鳴いていないが……もうここを離れた方がいいかもしれん」

「ジーク、あなたは何か見た?」

「何も見えなかった。お前は?」

「宝冠をかぶった私が見えたわ」

 ジークは口元に手を当てて考え込んだ。

「形は覚えてるか? 妃の冠かもしれん」

「どう……だったかしら。実はもうおぼろげでよく思い出せないの」

「なら今はわからないままでいいのかもしれんな」

 泉に映った真実の姿が宝冠を被った自分。何を意味するのだろう。そもそも『真実の姿』とはなんなのか。泉に映るのはその人の本質だと思っていたのに、プロセルフィナが見たのは未来のようにも思える。一方で思うのは宝冠を被ることの意味だ。

(私が地位のある人間だということ……?)

 そうして思い浮かべるのは、死んだ王女、シェオルディア。

 ジゼル。あなたは私なの? どんなに違うのだと言っても、私はあなたでしかないの?

「迎えが来たぞ」

 ジークが言った。灯火を掲げた人影が瓦礫を超えて近づいてくるのが見えた。こちらに気づいた彼らは名を呼んで駆け寄ってくる。そしてジークはレギンから小言を、プロセルフィナはアルから謝罪をたっぷり聞くことになった。

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