10−3

 ジークはアルガ王国首都ハノウから東へ向かった。乾季に当たっているおかげでマルヤム大河にかかる橋は流されずに残っており、難なく河を渡ることができた。その先は乾いた岩石地帯だ。何度か冥魔に襲われたが、剣の力で追い払った。笑い声と思しきものも聞こえた気がしたが冥魔の女王は姿を見せなかった。剣の力が先んじて辺りを浄化したせいかもしれない。

 川沿いを進み海へと流れ出る場所に作られた街ウガンまで来た。この街は河を挟んで北と南に分かれており、行き来には船が使われている。またどちらにも港が設けられており、北の港には北に行く船が、南港には東と南に行く船が出る。

 だがジークはそこで足止めされることになった。その船が出ないのだ。

「アレマリスの大島の半分が雲に飲まれたらしいよ」

「雲に触ると呪われるそうだ。女子供と年寄りからばたばた倒れるらしいぞ」

「神法機関はいったい何をしてやがる」

 船が停まったままの港は、赤紫がかった空と生臭い風が吹き下ろすようになっていた。桟橋に寄せる波には粘着質な泡が浮かび、ぴちゃぴちゃと気色の悪い音を立てる。そんな海に船を出すことができない船乗りたちは、少し離れたところで噂話をしながら、何かを忘れたがっているかのように酒を舐めていた。

 賑やかなはずの港町は異様なほど静まり返り、情報を集めるのに彼らのいる酒場にいるジークの姿が浮いて見えるほどだった。隣ではシグが抱えた膝に顔を埋めていた。島が心配で仕方がないのだろう。プロセルフィナのように歌でも歌ってやれば慰めになるだろうかと思うがジークには成すすべがない。

 ――……ゥ、ウウウ……グゥウウアアァ………!

 何度か力を使ったためか、剣が目覚めて声を発することが多くなっていた。夜に叫ぶときもあり、そのせいでジークも悪夢にうなされていた。

 それはこんな夢だ――砂の一つ一つが赤く染まり、血の川ができている。空から響く猛禽の鳴き声と折れた笛のような細い音。だるい身体から死臭を漂わせている自分は思考を煮やした熱の名残に呆然としながら、積み重なった黒い死体の山を見ている。するとどこからともなく声がして自分に命じる。

 ――お前の望む力を与えてやろう! 代わりに差し出せ、血を、死を、命を!

 そうして剣を振り下ろさんとしたとき、目の前の相手が仮面をかぶった白い女であることに気づいて目が覚めるのだ。

 そんな夜が重なってジークは誰に会っても部屋で休んでほしいと言われる顔色になっていた。ここに馴染みの騎士たちがいれば軟禁させられていたかもしれない。

 そこへ東行きの船を探していたムントが戻ってきた。

「どうだった? 船は出そうか」

「だめだ。誰も船を出さないと言う。ゼップのことも聞いたが、彼は西にいるらしい」

 何日もこの状態だ。これほどと知っていたらルウに頼み込んで船を一隻借り受けておけばよかった。だが船を得ても操り手がいなければ意味がなく、結局最も近いリュディア王国のヴァルヒルム大使が船を用立ててくれるのを待つしかないらしい。

 ――……ゥウウ……ウウウウ……。

 ジークは奥歯を噛んだ。きりきりと絞るような頭痛がする。

「……ジーク、大丈夫?」

 痛みを刺激しないよう小さな声で尋ねるシグに笑って首肯して、剣の柄を撫でた。安定を欠いているのはそもそも、鎮め手がいないことに剣が苛立っているからだ。

(お前も歌ってほしいと思うか?)

 この赤紫色の呪いが立ち込める場所にあの歌が響けば。

 そう思っていた翌日、護衛の騎士たちが戻ってきた。

「殿下! 港に船が到着しました!」

 港に向かいながら指示を出す。

「アレマ島へ向かう。船員の選別は俺が行う。残る者はこの街で父上の指示を待て」

「何を申されます、殿下! 一人で参られるおつもりですか!」

「道連れを作る気はない」

 その強い言い方に騎士は竦んでいる。

 ――果たしてこれは死出の旅なのか。

 剣の使い手は皆非業の死を迎えるという。これがそのときなのかと自問したが何故だろう、最期の気がしないのだ。プロセルフィナがここにいないせいなのかもしれない。

(お前に会いたい、お前の歌を聴いて、お前の微笑みを見て、お前に触れて、口付けたい)

 お前がずっとそばにいると言ったから、そんな願いは簡単に叶うものだと思うようになってしまった。お前が俺に生きていてほしいというから――そんな他愛ない夢はもう、信じなくなっていたはずなのに。

 北の空を見る。彼女は今頃何をしているのだろう。


       *


 紋章のない馬車は問答無用でロイシア城の門番に止められた。周囲を固めているのが不揃いな装備の傭兵たちというのも理由だろう。止まれと怒鳴り声は威丈高だった。

「何人たりともこの城に立ち入ることまかりならぬ! 立ち去れ!」

「まあまあ、そんなにぴりぴりしないて、ちょっと落ち着いてくださいよ」

 門番は気安い口調で話しかけてきたレギンを不審そうに見遣った。そこへすかさずアルが印章つきの書状をちらつかせる。

「わたくしどもの主はギシェーラ女王陛下、ならびにレスボス公爵閣下の旧知でございます。公爵閣下が病に伏せられたと聞き、お見舞いに参上致しました。ギシェーラ陛下にお取り次ぎください」

 不審者にしては洗練された仕草に怖気付いたらしい門番は相方と顔を見合わせたが、己を奮い立たせて声を張り上げる。

「ならぬ。例外はない!」

「でしたらホメロス神法司をお呼びください」

 国内を混乱させている三人の名前を次々に出されて彼らは警戒心をあらわにした。

「お前たち、何者だ」

「旧知と申しました。死の国の女王から余命をいただいたお方が我らの主です」

 すると相方の門番が顔色を変えた。だめ押しするようにアルが目を底光らせた。

「お取り次ぎを」

 知らせはあっという間に駆け巡り、プロセルフィナはついにロイシア城に足を踏み入れることになった。

 外套の被り布を取り払い案内に従って進んでいくと、城内にいた人々が驚愕の表情で硬直し、呆然と囁きかわす声が聞こえてくる。

「ジゼル姫……? まさか」

「御髪が短いが亡くなられた姿のままではないか!」

「ジゼル様だわ、ご覧なさいな、あの瞳。春の霞んだ空の色!」

 案内されるはずの部屋から重い上衣を着た壮年の男性が飛び出してきた。白いものが混じる髪は撫でつけられているが少し乱れている。彼が現在ロイシア王国の舵を取っている宰相ルベルトのはずだ。

「ジゼル殿下」

 かすかな希望を宿した眼差しを向けられてプロセルフィナが感じたのは「覚えていない」という空虚だけだったが、おくびにも出さずに尋ねた。

「私はノーヴス公爵令嬢プロセルフィナです。レスボス公爵はどちらにいらっしゃいますか。陛下はどちらに」

「姫様!」

 遠巻きにしていた人々の中から転ぶように飛び出してきたのは、愛らしい顔立ちをした侍女らしき女性だった。目に涙を溜めている彼女をルベルトは厳しく叱責する。

「リアラ、控えなさい」

「ルベルト様、姫様はオルフ様とギシェーラ様のことをお尋ねになりました。ほかならぬおふたりのことを! 姫様はロイシアを救うために戻っていらっしゃったんです!」

 リアラは身分も権力も持つ宰相がたじろぐ剣幕で言い放つと、プロセルフィナに向き直った。

「オルフ様は郊外の屋敷においでです。ですが、今あの建物には誰も入ることができなくなっています」

「建物に近づくことはできますが、一歩中に入ると気づいたらまったく違うところを歩いているといような不思議な現象に遭うのです。幻聴や幻覚に襲われた者も大勢おります」

 リアラの言葉を引き継いでルベルトが答える。プロセルフィナが目配せするとアルが頷きすぐさま人が放たれた。すぐにどのような様子が知らせてくれるはずだ。

 そのままぐるりと周囲を見回した。白い肌に白っぽい髪や目の色をした人々の中で、プロセルフィナはよく馴染んで見えるだろう。ここに暮らしていれば王宮の人間だと思われるにちがいない。こちらを見つめる人々はプロセルフィナを過去の人の姿と重ね、恐れているようだった。しかし何人かは懐かしそうに涙ぐんでいる。

「こちらの皆様には何の異変もございませんか?」

「城はそれほど……ですが海沿いの街は」

 言葉を切ったルベルトは苦い顔をした。手を尽くしてはいるが成果が上がっていない状況なのだろう。ここまで来るのに東から逃げてきたと思しき人々の野営地や、街に迎え入れられない人々が外壁の周りで暮らしているのを見てきた。すべての人々が苦しみと痛みを背負い、悲しみの波となって押し寄せているように感じる。風の音、におい、空の色までもが重く、腐り落ちていくかのような色をしていた。

 壊れていく。世界が。

 レスボス公爵の別邸を確認したとの知らせを受けて、プロセルフィナは数名にロイシアの神法司について調べるよう頼んでおくと、早々と出発することにした。

「微弱ながら物資をお持ちしております。お納めください。それでは失礼いたします」

「姫様! どうぞご無事で……」

「ありがとう」

 両手を組んで祈るリアラに微笑みを置いて立ち去る。ロイシア城の人々はまるで夢を見ていたかのようにプロセルフィナたちを見送った。

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