10−4

 城から北へ離れた場所にオルフの別邸があった。本来ならば眩い光に満たされているであろう邸は、色を失ったように暗く、風の吹く音が寒々しく聞こえる寂しい場所だった。打ち捨てられた廃墟のような雰囲気は邸の者たちがみんな逃げ出したせいだろう。その周辺にも人の気配がないのは噂が広まったせいか。

 玄関から離れたところで馬車を降りると、レギンとアルが呆れている。

「こりゃあ……禍々しいってもんじゃないね。誰も気づかなかったわけ?」

「神法司が使うまじないとは段違いですね。魔法のようなものでしょうか」

 不吉な世界の境界を慎重に見極めながら進み、ここだというところでプロセルフィナは立ち止まった。ここから先は水の膜があるかのように不自然に揺らいでいる。

「《通して》」

 告げた瞬間、その膜がぶわりと膨らんで襲いかかってきた。ぶよぶよとしたぬるい感触に目を閉じて過ぎ去るのを待つ。奇妙な空気に触れて目を開けると、ありえない光景が広がっていた。

「これは……」

 花が咲き乱れる庭園。

 春の花の木蓮、辛夷、水仙。菖蒲に飛信子。芥子の花。生き生きとした緑は芳しくきらめいている。花の間を虫たちが飛び交い、愛らしい紋白蝶や鮮やかな揚羽蝶が楽しげに舞っていた。空の色は薄く青い。気持ちいいほどの春の陽気だ。

「アル? レギン?」

 周囲を見回しているが、どうやらこの異界に入り込んだのは自分だけのようだ。

 彼らの無事を祈って邸を見上げる。

 二階の窓で影が動いた。

 プロセルフィナは玄関に走り「《通して》」と告げて扉を開けた。

 磨き上げられた玄関には春の光が降り注いでいる。目が眩んだ。なんだか胸が痛い。まるでこの春の光景を知っていて懐かしさのあまり胸を痛めているかのようだ。

「……《誰の夢なの? これは全部嘘でしょう。姿を見せなさい。私はここにいるわ》」

『私はここにいるわ』

 プロセルフィナの問いにかぶせるようにして同じ言葉を同じ声が言った。

 広い天井にくすくす笑いが響く。

「《夢から覚めなさい》」

 足を踏み出すと景色が変わる。虫の群れが逃げ出すように夢が崩れていき、いつの間にか入った覚えもない部屋に立っていた。

 部屋の中央に大きな塊がある。よく見ればそれは、呪いによる虚ろな眠りに落ちているオルフだった。

 彼を助け起こそうとしたが窓辺に女が立っているのに気づいて動きを止める。彼女の長い髪が金色の光を放ちながら蛇のように蠢き、青い瞳は獣のように影の中でも光っていた。プロセルフィナは認めた。こうして相対する彼女は、鏡に映した自分の姿と同じであるということを。

「《招かれざる者。彼の呪いを解きなさい》」

『あなたの命令に従う理由はないわ。私はオルフに迎え入れられたのだから』

 オルフは赤子のようにうずくまり肺を壊したときの呼吸をしていた。土気色の顔から憔悴は明らかで、このまま放置すれば命に関わってしまう。

『それが罪の意識からでも、嬉しかったわ……』

 それを聞いてプロセルフィナは尋ねた。

「あなたはジゼルなのね? 罪の意識というのは、あなたがシェオルディアに選ばれたことが間違いだったというのを知っているということね?」

 冥魔の女王は影を揺らめかせた。

「《答えて》」

『オルフは知らない。でも誰が知っていたかなんてどうでもいい』

 淡々とした調子で彼女は答え、こちらを見透かすように目を細めた。

『あなたは覚えていないの? 《死の庭》の門をくぐった後のこと。《死の庭》の番人が私たちに告げたでしょう? 「お前は護人ではない」と』

「……何の話?」

『そう、覚えていないのね。この世界には最初の《死の庭》の乙女が遺した魔法の仕掛けがたくさんある。《死の庭》へ至る門や、神殿が冥魔の侵入を許さないこと、エスフォス島の神殿はこれから後に続く数多の護人のために建てられたということも』

 不快感がこみ上げる。同じ顔をした相手の『私は知っている』という優越の表情が癪にさわるのだ。

「……だから何だというの。あなたは影、この世に呪いを放つだけのものよ! 《死の庭》に帰りなさい! 私に、私の覚えていない過去をちらつかせないで!」

 あははは、と彼女は笑った。プロセルフィナの必死さ、根底にある恐れに気づいて。

『どうしてそんなに恐ろしいか教えてあげる。あなたは本当は覚えているのよ。《死の庭》の門をくぐった先にあった原初、その流れに触れたこと。暗く冷たく寂しいその場所で、「私」を失くしそうになりながら必死に記憶の中にふたりの名前を刻み込もうとしたこと。もっとも愛して、もっとも憎んだふたり――ギシェーラとオルフ』

 びくりと勝手に身体が震えた。心臓に触れられたかのように胸が痛み、息が苦しくなってくる。流れ込んでくる――悲しみと憎悪。迫り来る轟きは自分を飲み込む水の音……。

『絶対に許さない』

 声が重なった。

 首を振った。何度も何度も首を横にした。

 私はプロセルフィナ。その愛と憎しみは私のものじゃない。私は、誰も呪ってなんかいない。

「知らない……知らない! 覚えていない!」

『《思い出せ!》』

 怒りを剥き出しにして冥魔の女王は命じた。

『ギシェーラは嘘をついて私からオルフを奪った! オルフは私が《死の庭》の生贄に捧げられることを知りながら一緒に逃げようと言ってくれなかった! 私を殺したのはあのふたり! 居場所を奪い、私を「いらないもの」として捨てたのはあのふたりだ!』

 感情を高ぶらせた冥魔の女王の影が部屋を包み込む。プロセルフィナは膝をついた。がたがたと身体が震えるのは、過去の自分が泣いているのだろうか。涙が溢れてくるのは本当に忘れたわけではないからだろうか。

 彼女の言うことがすべて理解できたわけではないのに、その苦しみを自分のもののようにして感じることができる。『誰かに必要とされたい』という恐れと願いはそこから由来するものだったのだ。

『……ずっと信じていた。お姉様に必要とされ、国をよくするための方法を考える日々。幼馴染みへの叶わない恋を抱きながらも、自分は幸せなんだと思っていた。……なのに《死の庭》の乙女に選ばれて、生きているのに自分の葬儀が執り行われて……それでも一生懸命勤めを果たそうとしたのは、大事な人たちにこれからも幸せに生きていてほしかったから――けれど本当は誰にも必要とされていなかったと知ったときの絶望を、どうして忘れられるというの?』

 冥魔の女王はプロセルフィナの前に立ち、手を伸ばした。

『許さないわ。その愛と憎しみを忘れて新しい生を生きるなんて』

 影をまとった冷たい指が頬に触れる。それは慕わしく感じられるほどに優しくプロセルフィナを包み込んだ。

『あなただけ。私だけ。この世界で誰にも必要とされない自分のことを、私たちだけが望んで愛してあげられる。だから私たちは一つになるべきなのよ。プロセルフィナ、一緒に行きましょう? そうすれば私たち、永遠にひとりぼっちにはならないわ』

 それは甘美な誘惑だった。

 誰かに去られる恐怖も、裏切られることもない。誰かのために自らを削ぐ必要はなく、他者から理解されないことに苦しまずに済み、永遠の理解者を得ることができる。円環を描く完璧な幸せだった。何故なら私のことは私が一番愛してあげられるからだ。

 ――だって彼は私の力は必要ないと、私を置いていったのだから……。

(――本当に?)

 ちらりと瞬くようにして問う声がした。

 それは今までの幸福を否定するに価するものなのか。

 そのときプロセルフィナに見えたのは、青い空と海を抱く島の風景。居場所が欲しいと言って受け止めてくれた彼と、何も持たない自分を受け入れてくれたたくさんの人たちの姿。そして誰かを思って歌う自分。

 ――ジークのために歌うことが幸せだった。

 ジーク。その名と姿を呼び起こした瞬間、思考がはっきりした。

(彼をひとりにできるわけがない!)

 プロセルフィナが魅入られていた自分の姿は今やひび割れていた。完全な自分であることは幸せかもしれない、けれどこのままでもいいとジークなら言ってくれる。

「私たちは鏡だわ、ジゼル」

 戸惑ったように冥魔の女王が動きを止めた。

 プロセルフィナは彼女に向かい合い、その表情をつぶさに見る。重なった心に自らの思いを流し込む。彼女は悲鳴をあげた。

「反転する影と光。生と死。喜びと悲しみ……――でも、私は私よ!」

 見えない力に弾き飛ばされるようにして冥魔の女王が離れた。

「私はジークを生かし続けるために歌うわ。いつか誰にも必要とされなくなったとしても、そうして生きたときの記憶が私を生かす――あなたじゃない。生きるのは私よ!」

『彼は「私」を助けてくれなかったのよ! 思い出しなさい!』

 感情を流し込まれて悲痛な声を上げる彼女に言う。

「でも『私』は彼に救われたのよ」

 微笑んだ。

「《死命よ。あなたの名前を知っている》――」

『彼からあなたを取り戻すわ。「私」を愛せるのは私だけなのだから!』

 闇色の炎が吹き上げ、冷たく感じられるほど熱い風がなぶる。その炎の中に滑り込んだ冥魔の女王は姿を消し、邸を覆っていた影は霧散していった。

 失われていた色彩が戻り、遠くからプロセルフィナを呼ぶ声がする。うずくまっていたオルフが呻いたので、急いで駆け寄った。

「公爵、公爵様! オルフ様……」

 げっそりと頬が痩け、ずいぶん衰弱している。冥魔の女王にかなり生命力を吸い取られてしまったのだろう。脈が弱く、ぜえぜえと苦しそうな息をしていた。急いで医師に診せなければならない。

「しっかりなさってください、すぐにお医者様のところへお連れしますから!」

 プロセルフィナの頬にオルフの手が触れた。

 動けなくなる。自分の知らない心の奥で喜ぶのは、先ほど重なった彼女の思いか、それとも。

「――君を救えなかったことを、赦してくれ……」

 プロセルフィナは目を見張り、唇を噛んだ。誰も彼もジゼルの名を呼ぶというのに、そのどれも彼女には届かなかったというのか。

 オルフはそれきり意識を失ってしまったようだ。扉が開き、アルとレギンが駆け込んでくる。プロセルフィナは彼らに助けを求め、邸からオルフを運び出した。

 ロイシア城に戻ってオルフを典医に託した後、調査を託していた数人からギシェーラと神法司について話を聞いた。

「神法司ホメロスはどうやらエスフォス島に向かったのではないかと思われます」

 エスフォス島と《死の庭》について調べたらしい痕跡があり、走り書かれた『プルート司長へ』と手紙の書き損じらしき紙片のごみが見つかっていた。

「エスフォス島へ向かいます」

 冥魔の女王はジークを追っていったにちがいない。彼女は剣の力には勝てないのだからいずれ再びプロセルフィナのところに姿を現すだろう。だから時間のある今のうちに、もう八年前となったシェオルディアについて突き止めるべきだ。

 その宣言を制止したのはルベルトだ。

「しかし今の東海は危険です。船を出す者もおりません」

「船を買います。島から最も近い港からは一日もあれば到着できるでしょう、アル?」

「風と波の具合にもよりますが、おそらく。……まさかずっと歌うつもりですか?」

 プロセルフィナはにっこり笑った。

「一日といっても、エスフォス島の近海は《死の庭》の影響を受けていないはずよ。だからせいぜい十数時間でしょう」

「しかしエスフォス島の結界は神法司がいないと通ることができません」

「それならわたしが」と控えていたキュロが手を挙げた。

「お時間をいただけますか? 神法書や呪文書を見せていただきたいんです。できれば原本をお願いします。結界の解除方法を確認しておきたいんです」

 ルベルトは諦めたように命じた。

「この方を神法司の書庫へお連れしなさい。何か他にご用意すべきものはありますか?」

 尋ねられたプロセルフィナは首を振った。

「海へ行くための準備を整えたいので、キュロが戻ってきたらすぐに出発します」

「船や食料ならばわたくしどもが用意させていただきます」

「いいえ。私はこの国に借りを作る気はありません」

 ルベルトは息を飲んだ。

「何をおっしゃいます、殿下」

「私はプロセルフィナです。私は本来ならばここにいるはずのない人間なのです」

 当惑するロイシアの重臣たちを放り、シェーラザードゆかりの商人から船や船旅に必要なものを揃えるよう命じる。それでも何か言おうとする彼に言い放った。

「巡り合わせによってこの国に足を踏み入れることになりましたが、すべてが終わった後この地を踏むつもりはありません。――ごきげんよう、ロイシアの皆様方。もう二度とお目にかかることはないでしょう」

 胸の中で呼びかける。――ジゼル、これはあなたのもの。あなたが受け取るべきだった敬愛。だから私はそれらを拒絶する。たとえ記憶が戻ったとしても、私がジゼルに戻ることはないのだから。

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