第11章 真実の代償
11−1
クルーザに移動すると到着を待っていてくれていた商人組合の使いが、プロセルフィナたちを船へ案内してくれた。シェーラザードの実家に関係する商人はしっかりと仕事を果たしてくれ、食料や水、その他日常生活を不備なく送れるほどの品物が積み込まれ、乗組員たちは向こう見ずながら《死の庭》の影響が濃い海へ漕ぎ出すことをいとわない勇敢な者たちが揃えられていた。
船は赤紫色に変色した東海へ漕ぎ出した。
雲を通す日差しまで赤い。《死の庭》はどこまで迫っているのだろう。今すぐにアレマリス諸島へ向かいたいけれど、まずはエスフォス島だ。
歌う。ジークを思って。
荒れる空の果てに君は
雨を待つ大地を祈り
名も知らぬ種を植えた
とこしえの別れの代わりに
流れるのは憎しみ
こぼれるのは悲しみ
君の手を離した後悔
共に行けなかった臆病者に
いましばらくだけ祈りを
せめて目を閉じるまでに
血の色を想像させる赤い霧が海の上を流れていく。船には惜しげもなく灯明が掲げられ、舳先にいる乙女の像の近く、甲板の最前方に立ってプロセルフィナは歌った。先の見通せない赤い海でもしこの船を目にしたなら、幽霊船か魔女の船だと思われるかもしれない。
歌っていると、船とその周囲は清浄な空気を保っている。霞む赤い霧は恐れをなしたかのように割れ、船に道を譲っていた。
しばらく詞のついた歌を歌っていたが、やがて旋律を口ずさむようにした。どのくらい経ったかは聞かないようにして歌うことだけに注力していた。幸い風は止まないので足止めを食らう様子がないのが救いだろうか。たまにキュロが差し入れてくれる水を飲むわずかな時間を休息にして歌い続けた。
ふと視線を感じて振り返ると、こちらの様子を見に来たらしい船員たちの視線とぶつかった。こんな海に出るのは初めてで恐ろしいのだろうし、プロセルフィナの力も奇異に映るのだろう。こんな歌を歌ってみる。
引け引け、漁火
裂け裂け、海波
おおっと嬉しそうな声が上がる。アレマ島の漁師たちの歌は、彼らにも聞き覚えがあるものだったらしい。
「風が変わります! 潮の流れが……」
「雲が動くぞ! 用のないものは船室に避難していろ!」
にわかに甲板が慌ただしくなる。アルとレギンも姿を現し、前方に現れた白い雲が渦を巻く海域を捉えた。
「キュロ、頼んだ!」
「お任せください!」
レギンに言われたキュロは頬を紅潮させながら、ロイシア王国から持ってきた神法書を片手に、プロセルフィナの隣に並んだ。
「――《我は空を景仰する。
我は風を携行する。
震える砦よ、明滅する守護よ。
正しき印章たる鍵を聞け》」
キュロが不思議な発音で神法の呪文を読み上げる。ひとつの単語に音程さがつくその言葉はどこか歌に似ていた。
(音が)
それまで内部で響くだけだった音が突き抜ける感覚があった。切り裂くように雲が背後に流れ、突風が吹く。背後に倒されそうになったのを誰かが支えてくれていた。
(歌わなければ!)
声を張り上げて音を長く伸ばす。酷使した喉は痛み肺が苦しく、風のせいで息ができなくなる。声が揺れると船もまた不安定に上下した。
(喉が詰まる。息が、続かない……!)
どれだけ続けなければならないのか。このままでは。そう危ぶんだとき、ふっと空気が冴えた。
雲のない蒼穹がもたらす清々しさ、青く澄んだ波が呪いの中を突き進んできた船を洗う。青の色は高ぶった心を落ち着かせ、おおらかな波音は優しく響いて聞こえた。
「姫君、騎士様。エスフォス島の領域に入ったようです」
船長の呼びかけに歌を終わらせ振り返ると、倒れそうになった背中を支えてくれていたのはレギンだとわかった。
「危なかったねえ。……ジークじゃなくてごめんね?」
お礼を言おうとした瞬間にそう片目をつぶって茶化すから呆れてしまう。
「プロセルフィナ様、お水です! それからこれで汗を拭いてください!」
キュロが水筒と手巾を持ってきてくれたので礼を言って受け取り、喉を潤していると、船を操る船員が声を上げた。
「島影確認! エスフォス島です!」
「白い建物が見える。あれが神殿か。思ったよりでかいな」
プロセルフィナには小さな点のようなものしか見えないが、目のいい船員たちは示された方向を確認し、そちらに船を進めていく。
「……旗が掲げられていませんか?」
アルにはそれが見えたらしく不思議そうに尋ねた。物見が船長の「何の旗だ!」という問いかけに応じる。
「白い旗だ! 描かれてるのは……花と剣? 草模様みたいなものに囲まれている!」
甲板上のプロセルフィナたちは顔を見合わせ、首をひねった。神法機関がそんな紋章を掲げるなんて聞いたことがない。キュロも訝しげな顔をしている。
「草模様はもしかしたら神法文字を組み合わせたものかもしれませんが、花と剣というのは心当たりがないです」
慎重に港へ進むと桟橋に集まる何十人という神法司を視認することができた。あまりに仰々しい光景に警戒心を露わにして、アルとレギンがプロセルフィナの周りを固める。
ふとキュロを見ると、青ざめて震えていた。ここに彼女を陥れた人間がいるのだから当然だろう。隣に立って左手でぽんと背中を叩くと、びっくりした顔をされる。それに微笑んで寄り添い、錨が下されるのを待った。
騎士たちに守られて下船すると、神法司の代表らしき人物が進み出た。まだ年若い、清潔な印象の男性神法司だ。「あ」とキュロが声を上げた。
「もしかして……アイス司兄……?」
呼びかけられた神法司は険しかったまなじりをかすかに和らげた。
「久しぶりですね。キュロ司妹」
そしてプロセルフィナたちに向かって深く頭を垂れる。
「ようこそエスフォス島へ。私はアイス。現在不在にしている司長に代わってこの島を預かっている者です。どうぞこちらへ、神殿へご案内いたします」
「長居するつもりはございません。いくつかお尋ねしたいことがあるのです」
「現在起こっている《死の庭》の侵食について、それからキュロ司妹への傷害、彼女が見たもの、ひいては《死の庭》の護人の任命の不正について、ですね」
ぎょっとして立ち止まった。アイスは冷たい微笑みを浮かべて空にはためく神殿の旗を見上げた。
「あの旗は神法機関の真の役目を果たすときが来たことを知らしめる旗だそうです。私はプルート司長からあの旗を掲げるよう言付かりました」
何もかも知っているかのように語るので、キュロが動揺している。
「な……何があったんですか? どうしてわたしが人身売買の組織に売り渡されなくちゃならなかったんですか。アイス司兄はその理由を知っているんですか!?」
「きっかけは君ですよ、キュロ。君が突然姿を消したことで、神殿に潜んでいた改革派が動き出したんです。《死の庭》の封印が機能していない状態もそれを後押ししました」
一行の戸惑いに対してアイスは鋭く微笑んだ。
「革命が起こったんです。改革派が主立った神法司を捕らえ、真実を明らかにするよう迫りました。そうして私たちは真実を伝えるべき方々の訪れをずっと待っていたんです」
新しい案内役の神法司が現れた。キュロは見知った人物だったらしく「書庫守の」と呟くと、その声が届いたのか青白い顔をした神法司は八重歯を見せるようににっと笑った。
「旧体制の方々が護り続けた秘密、改革を望んだ私たちが求めた真実――すべての始まりであろうそれを、皆様方に語りましょう」
きっと以前歩いたことがあるであろうエスフォス島の神殿を歩く。柱や窓の様子はヴァルヒルムの古い建物に似ているし、欄干や柱の彫刻はアルガにある王宮のようでもある。アイスたちはプロセルフィナたちを本殿だという広い場所に導いた。
「この本殿には神法の呪文で開く《門》とその先の《予言室》が隠されています。キュロ、君が入ったあの部屋です。
奥の祭壇には神法司たちが集まっている。彼らはアイスの会釈に微笑で応じ、その場を譲った。こちらへどうぞと促され、ゆっくり近づく。
祭壇の上には白い台座があり、一枚の紙片が載っていた。きらびやかな用紙で草でもなければ革でもない、不思議な質感なのが見て取れる。そこに刻印されている文字は焼きついているかのように黒く、人の手で書かれたとは思えない美麗な筆跡だ。
キュロが後ずさりした。
「……これ、は」
「そうです。君が以前見たものです。これは《死の庭》の護人の任命書です。どうぞ、プロセルフィナ様。皆様に聞こえるよう読み上げてください」
まるで呪いをかけるかのようにアイスが告げる。
震えそうになる自分を律し毅然と顔を上げて、プロセルフィナは足を進めた。神法司たちが見守る中、神秘の書を見下ろす。
息を吸い込んだ。
すべての始まりがここにある。
「《死の庭》の乙女を捧げよ。汝らに告ぐ。乙女の名は」
プロセルフィナは目を見開き、たまらず顔を伏せた。
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