11−2

 雲を避けて進んだジークの船は、ひとまずアレマリス諸島北部にある小島に停泊した。これ以上は無理だと船長が言ったためだった。東の海が血の色に染まっているのを見て言葉もなく震えるシグと青ざめるムントだったが、アレマ島の人間が避難していると聞いて集会所に行くと、リンデをはじめとした島の者たちが集まっていた。

「兄さん! 兄さん……」

 顔をくしゃくしゃにした妹をムントは強く抱きしめた。そうすることで妹に変わりがないことを確かめようとしているようだった。シグもまた家族と再会できたようだ。しばらくすすり泣いていたリンデはジークに気づくと、ほっと安堵の息を漏らした。

「ジーク、来てくれたのね。エルダは絶対来るって言ってたけど本当に来てくれたのね」

「エルダは無事か? 島の者はどうなった」

「みんな早めに避難したから無事だった。でも海に潜れないくらいの小さな子たちは避難する前にたくさん死んでしまった……呪いを受けたんだってエルダが言ってた」

 ジークは自分の名前を呼ぶのも覚束なかった幼子たちの冥福を祈った。

 リンデに教えられた通りに島の長の家に行くと、エルダが待っていた。島の聖域を守護していた老嫗は人々に拝まれる神像のようにちんまりと座っていながらも、鋭いほどの眼差しでジークを迎えた。近くにはヴェルが座っており、こちらを見てかすかに笑ったがすれ違いざまに短く囁いて部屋を出て行った。

(……『もう長くはない』)

 医者の見立てをひととき忘れ、ジークは笑ってエルダの前に腰を下ろした。

「無事でよかった、エルダ。遅くなってすまなかった」

「役目を持つ者は役を果たすまで舞台を降りることはできないものだからね。こんな婆が逝くことも許さないなんて、世界の決まりごとは厄介でならないよ。人が死に行くところを誰が見たいと思うかね」

 エルダらしからぬ強い怒りの口調は、島の者が命を落としたのをまだ強い痛みとして感じているからのようだった。

「さあ最後の仕事だ。ジーク、剣をお出し」

 言われるままに鞘に収まったままの剣を横たえる。唸りはしないが目覚めており、紫色の力が周囲を取り巻いているのを見ることができる。このままではジークの命を糧にしてとめどなく魔力を放出し続けるだろう。

 エルダは懐から取り出した小瓶の蓋を開け、中身の透明な水を振り掛けると見えない何かを剣に振りかけた。

「《彼方の蓮花を飲み干せ。傍らの炎を飲むなかれ》」

 砂が吸い込むように、水はあっという間に消え失せ、剣の縛めはわずかに小さくなったようだ。呼吸するときの痛みがまったく違う。

「少しは負荷が軽くなると思うよ。《死の庭》までは保つだろうさ」

「ありがとう、エルダ」

 エルダがため息をついたので、剣を腰に戻しながらジークは微笑んだ。

「プロセルフィナを置いてきたんだね。あの子はさぞかし怒っただろうね」

「剣に選ばれたときにろくな死に方はしないとわかっていた。こういう最期ならいいさ」

 反射的に首を振ってから、自分がそれまで感情に蓋をしていたことに気づく。息を飲むほど思いがこみ上げた。

「……あいつが死ぬところを見ないでほっとしているし、逆に死ぬところを見られないでよかったと思ってる。死ぬ間際になってみっともなく生きたいと言う自分が想像できて怖かったんだ」

「ここには老い先短い婆しかいないけどね、ジーク」

「俺の本当の心を知っているのはあいつだけでいい。俺のすべては彼女のものだ」

 立ち上がるとエルダはますます小さくしぼんでいくように見えた。彼女とはこれで最後なのだろう。思えば島に突然現れた自分が受け入れられたのはエルダがいたからだ。ジークの中にある葛藤や苦しみを理解して見守ってくれていた。

「手を貸してくれてありがとう、エルダ」

 巫女は赤子のような手を振った。

「あたしはあたしのしたいことをしただけ。それがあんたの救いになったなら十分だよ。さよならだ、ジーク」

 別れを告げた後、ジークは北端の岬に行って剣を抜いた。

 心臓を握っている剣の手がわずかに緩んでいる。エルダの唱えた文言の通りなら、剣が遠い彼方にある異界の花の水を飲んでジークの命の代わりにしているのだろう。

 剣の切っ先を天に向ける。

「……『死命よ。あなたの名前を知っている。』……だったか」

 その歌が響くときはいつも彼女しか見ていなかったので、詞には気を配っていなかったことに気づいて苦笑してしまった。

 あの声を胸の中でよみがえらせる。

 そして、力を解き放つ。赤紫色の光が岬を中心に、すべての方角に向けて迸った。

 雲が消滅すると嵐のような風になり、弱っていた身体は軽々と吹き飛ばされそうになった。暴れる剣の力はますます強くなり全身が悲鳴を上げている。振り回されそうになる意識をなんとか押しとどめて赤い雲を滅していると、青色を取り戻しつつあった海から何かが流れてくるのを見えた。

(なんだ、あれは)

 それはみるみる岸に近づいてきていた。

 船だ。ごく少数しか乗れない小船、まるで棺桶のような朽ちかけたそれは引っ張られるようにして島に迫り、岩場に乗り上げた。

 ジークは剣を収めて船に向かった。するとそこから人が転がるように降りて、砂浜にどっと倒れた。

「大丈夫か!?」

 衰弱し汚れきったその男は全身に《死の庭》の呪いを受けているようだった。全身が腐り心臓に至るのだ。助け起こそうとすると脂ぎったざんばらの髪の間からよどんで濁った目がこちらを睨んだ。

「……あなた……」

 その目は丸くなり、猫の目のように細くなったかと思うと、突然笑い始めた。

「く……くくくく……あは、あはは、あはははは! あなたか! こんなところであなたに会うとは、運命は最後まで私を苦しませるつもりらしい!」

 壊れたものの狂気を感じてジークは慎重に尋ねた。

「誰だ」

「覚えていらっしゃいませんか。そうですよねえ、覚えていませんよね! もう八年になる上、同道したのはたった数日、交わした言葉も数えるほどとあっては」

 ジークは改めて男を見た。八年前のいう言葉はすぐさまあの旅を思い出させる。元は白だった衣装、裾の縫い取り。今、四十歳くらいの男なら、あのとき三十代だったであろう人間は一人しかいない。

「ホメロス司」

「おや、覚えておいででしたか。意外ですね。あなたはシェオルディア以外には興味がなかったようだったのに。まあ最後はそれほど関心を持っていなかったようですけれど、あれはどうしてだったんです? なんとなくの直感ですか? なんとなく、あれが本物のシェオルディアじゃないとわかっていたんですか?」

 ジークはホメロスの胸ぐらを掴みあげた。

「お前は……! お前はそれを知っていたのか!」

「おややっぱり気づいていたんですね。ええそうですよ、知っていました。だって私が偽装したんですから。私と、ギシェーラがね!」

 けひひひと魔性のような声でホメロスはジークの驚愕を笑う。

「どうしてかわかりますか? それはね《死の庭》の乙女に任命されたのはギシェーラだったからですよ!」

 目を血走らせ唾を撒き散らしながらジークを傷つけるためだけにホメロスは語り続ける。

「任命を告げられたギシェーラは『身代わりを立てたい』と言いました。自分には役目がある。今死ぬわけにはいかないとね。なんと傲慢な王女でしょうか! 自分だけ助かろうと世界に背くとは!」

 ジークはつかんだホメロスを揺さぶって問うた。

「何を引き換えにした」

 ホメロスはいやらしくにたりと笑った。

 それで察せられてしまった自分は下衆なのだろうか。

「お前……!」

「差し出したのは彼女ですよ! 私たちは運命共同体なんです。身代わりを立てた私も同罪ですからいろんなことをしました。本物の任命書を見た見習いの娘を売り飛ばしたりね。代わりにギシェーラは私に立場をくれました」

 神法司の出身は大まかに二種類にわけられる。高貴な身分として生まれて出家したか、身寄りが亡くなったため神法司になることにしたか。ホメロスは後者なのだろう。だから人買いなんてものをエスフォス島に引き入れることができたのだ。そんな裏社会の人間との関わりを使って自らの立場を引き上げてきたにちがいない。

 だがホメロスの顔が醜く引き攣れた。

「これからもずっとそのはずだった。……なのに《死の庭》はそれを許さなかった」

「世界が滅ぶかもしれないと怖くなって、ギシェーラと逃げたというわけか?」

「最初はそのつもりだったんですよ。エスフォス島の連中は任命書の文言が変わらないことで一年経った頃には身代わりに気づいていたから、この事実を公表するか否かで言うことを聞かせることが可能でした。ギシェーラと身を隠す予定が、島で革命が起こってしまったせいであの爺ども、世迷言を言い始めた。――身代わりは必然であった、世界が滅びるかもしれないことに意味があるなどと言って。ギシェーラを奪って私を島流しにしやがった!」

 次の瞬間ホメロスの手が剣に伸び、とっさに突き飛ばした。したたかに背を打ったホメロスは激しく咳き込み、しばらく動かなくなったがやがて狂ったように笑い始める。

「だって私たちは知らなかった! 世界の危機に真の《死の庭》の護人が現れるなんて。私たちが捧げてきた護人が身代わりにすぎなかったなんて!」

 ――アア……アアアア、アァアアア……!

 剣はこの男の命を欲していた。まるで口封じを望むかのようでもあったし、男の言うことが真実であると笑っているようにも感じられた。

(真の護人? 何が起こっている。この男は何を言おうとしている?)


       *


 乙女の名はギシェーラ・ジュディス・ロイシア。

 しんと静まり返った一同を見回してアイスが言った。

「その文言はこの八年間、一言一句変わっていないと聞いています」

 それを聞いて二の句が継げなくなったプロセルフィナの代わりに問いただしたのはキュロだ。

「本当のシェオルディアじゃないって最初から気づいていたってことですか!?」

「最初からというわけではありません。少なくとも私たちが旅を終えるまでは正しく護人が立ったと考えられていたようです。ですが任命書がそのままの文言であることにプルート司長が気づき、ホメロス司を問いただそうとしましたが、彼はそのときすでにロイシアに帰国していました」

「じゃあどうして新しい護人を選ばなかったんですか! シェオルディアが身を捧げたことは間違いだったんでしょう、だったらやり直すべきでした!」

「ええ。ですが上層部はこれを好機と考えました。上層部しか知ることのない真実のために、これを秘匿して様子を見ることを決めたのです」

 そのときプロセルフィナの中でふつりと沸いたのは、怒りではなく恐れだった。

 その先を聞いてはいけない。

「何故なら《死の庭》の護人は、真の《死の庭》の封印の身代わりにすぎないからです」

 怯えたようにキュロが息を飲んだ。

「身代わり……?」

「初代の《死の庭》の乙女ですら、真の封印が現れるまでの身代わりでした。正しいそれが現れるときまでの身代わりを選ぶのが《予言室》と任命書。神法機関は真の柱が現れるときを待っていたのです。世界が壊れるときにこそ現れるというそれを、ずっと」

 プロセルフィナは一歩詰め寄った。

「その『真の《死の庭》の封印』とは、誰なんですか?」

「真の《死の庭》の柱たる資格を持つのは、時の節目に現れ、絶大な力をもたらす、魔法時代の遺物。《魔具》と呼ばれる伝説の剣――」


「お前のその魔剣こそ、真の《死の庭》の封印だ」

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