1−2

 嗅いだ空気にはにおいがなかった――だからこれは夢だ。

 ここしばらく夢見の力が発動することがなかったのに何を見せようというのだろう。

 夢の中の世界は、暗い。月も星も。何も見えない。

 次の瞬間赤紫色の雷光が奔った。

 身をすくませるジゼルの前にそれが落ち、打たれこそしなかったものの衝撃で倒れこんだ。割れるような頭痛が始まり、呻きながら身体を起こしたジゼルは、目の前に現れた影に凍りついた。

 黒い怪物が赤紫の瞳を爛々とさせていた。

 身体がすくんで動けない。瞳と同じ禍々しい光がジゼルへ向かって走り、貫いた。

 悲鳴をあげた。内臓が焼かれる。思考が飛ぶ。喉がただれて声が出ない。感覚は痛いとだけ叫ぶ。動けなくなってなおも息があることに絶望する。狂ってしまった方がいっそ楽だと思え、ジゼルは涙を流して喘いだ。

(いや……来ないで……!)

 滴り落ちた涙が白い光を放つ。

 オ、オオオオ、と大嵐のごとく影が吠えた。ジゼルが持つ光を憎むようでもあったし欲するようでもあった。そして掲げたその手の中で赤紫の光が剣のような形をとり、逃げられないジゼルに向かって振り下ろされた――。


 宮中の人々は布を裂くようなジゼルの悲鳴を聞いた。寝台の上で全身を痙攣させ、涙を流して喘ぐ王女に慌てふためいた侍女や侍従は、医師と姉王女を呼んだ。処置を施されたジゼルは、気づけば姉の腕にすがりついて泣き叫んでいた。

「大丈夫よ、ジゼル! 落ち着きなさい! いい子ね、ジゼル。いい子だから」

「こわい、こわいこわいこわいこわい! お姉様助けて! お姉様……」

「ジゼル、何を見たの。教えて」

 繰り返し同じことを叫び、繰り返し同じことを問われた。ジゼルがまともな受け答えができるようになった頃には空は白み始めていた。

「何を見たの?」

 泣き続けたせいで目が腫れ声は掠れている。発熱しているために返答はうわ言のようにぼやけていた。

「何かが、来ます……赤紫色の、禍々しい、何かが……」

 その色は幼い頃から悪夢の中で見てきた、死と混沌を表すものだった。その色を持った何かは昔から夢に登場するもので、いつの間にか距離を縮め、ついにその手をジゼルに伸ばしたのだ。ずっと恐ろしく禍々しいものだと思っていたのに、それに貫かれてどこかほっとする自分がいたことが何よりも怖かった。

「こわい……こわい……!」

 幼児のように濡れた頬を引きつらせて袖を掴むのを優しい声であやすギシェーラは、ジゼルが眠るまでそこにいてくれた。だがそれからもジゼルは日に日に何かがやってくるという予感を募らせては夜中に泣き叫んで飛び起き、ギシェーラに縋った。

 力を奪われるようにして床についたジゼルを、ギシェーラは忙しい合間に見舞ってくれた。そしてついに最も聞きたくなかった宣告を受けてしまった。

「この分だと会には出席できなさそうね」

「……ごめん、なさい……」

 もてなしと歌の披露を命じられたというのに、ジゼルは食事が喉を通らず、みにくいほどに痩せてしまった。これでは表に出るだけでギシェーラの迷惑になるだろう。だが姉は謝らなくていいわときっぱり言った。

「それほどの恐怖を感じる予見……そちらの方が心配よ。何もなければいいのだけれど」

 ジゼルもそれが心配だった。夢の中で強大な力を持った何かが自分をばらばらにする。激しい苦痛は変化の暗示だろうか。それとも死、滅びを意味するのか。ロイシア王国に不吉な出来事が起こる啓示なのか。

 熱にうなされながら寝台の上でそれらのことを考え、口にすれば本当になりそうな気がして小さくなって震えていた。大臣たちのように裏付けのないただの夢だと切り捨てられればよかったのに、夢の中で与えられる苦痛は生々し過ぎた。

 為政者の顔をして何か考えていたギシェーラは、ジゼルの視線に気づくと目元を和らげ「何か欲しいものは?」と尋ねた。ジゼルはしばらく考え、小さく言った。

「……髪を、切りたいです」

「髪?」とギシェーラの顔が訝しげになった。

「落ち着いてから……お姉様が即位して、ご結婚するまでの間くらいに」

「だめよ」

 強い否定にジゼルは言葉を止めた。一瞬ギシェーラが目を吊り上げた気がしたのだ。

「だめよ、ジゼル。短い髪なんて。せっかくそれだけ伸ばしたのよ。私とお揃いなのでしょう? それとも、お揃いはもう嫌なの?」

 悲しげな顔で言われて、慌てて首を振った。

「いい子ね」

 ギシェーラがそう言って、辞去の挨拶をジゼルの額に贈った。

「来賓がいらしている間は外に出ないようになさいね」

 颯爽と仕事に戻る姉を見送ったジゼルは、再びうとうとと微睡み始めた。その心にどこかから警告の囁きが響いてきた。――くる。もうすぐ、くる。

(何が、来るの)

 影の訪れに怯えるジゼルは夢を見ないことを祈りながら、深く眠り込んでいった。


 気がつけば明かりがなければ床も見えない夜更けだった。空気は針を含んだように張り詰め、天気が崩れたのか強風の音が聞こえていた。冷たい大気で呼吸をすると弱った肺がつきつきと痛む。それでもだるい身体を起こしたのは、嫌な予感が肌の上を走っているのを感じたからだ。

 周囲を見回す。静かだ。

(でも何か、いる)

 恐怖や不安に苛まれ続けたせいで、心は磨耗して鈍くなっていた。確かめてみようと考えたジゼルは、普段なら決してしない夜歩きをするために肩掛けをまとった。

 窓を見る。城の外周となる森は闇の海と化していた。何気なく硝子に触れたジゼルは、熱く感じられるほどの痛みを覚えて驚いて手を引っ込め、背筋をぞっと粟立てた。

 今、外では《死の庭》の力が濃く漂っているのだ。

 それがなかなか回復しない身体と繰り返し見る悪夢の理由なのだろう。鈍っていた恐怖が急にせり上がって後ずさった時、窓の外に人影を見てしまった。

 こんな夜中に出歩く誰かがいる? まさかと思ったが、ここに同じことを考えた自分自身がいる。しかしこの大気の中で長時間過ごすのは危険だ。

(見間違いかもしれない。こんな時間に、明かりも持たず出歩く人なんて普通はいない)

 しかし予感があったのだ。ジゼルにとって余計な感覚であるそれは、見たものが確かに一人の人間の影であったことを告げている。

 決意の息を吐き、きっと顔を上げると、ジゼルは洋燈ランプを持って部屋から忍び出た。近くの部屋にいる侍女たちに気付かれぬよう、廊下を抜けて建物を出る。

 外は想像通り腐臭が強かった。《死の庭》の風が地表近くまで漂い、じわじわと大地を侵食している。足を取られるようなぬかるみを感じながらも、急いで森へと踏み入った。

(……どうしてだろう。さっきの人がどこにいったのかがわかる……)

 まるで光る糸を辿るように感じられて、ざわめく夜の森を、心を奮い立たせて進むことができる。

 強い呪いを含んだ《死の庭》の風は病以上によくないものを呼び込みそうだった。もしかしたら現れるかもしれないものを想像して冷たい汗が流れるのを感じ、考えが足りなかったのではと思い始めた。自分が来なくてもよかったのだ。衛兵に頼み込んで見てきてほしいと言えばいい。ジゼルには彼らを使う権利があったのに。

「うっ……!」

 臭いに耐え切れず胃の中から不快感がこみ上げた。口を押さえたまま座り込む。胃の中にあったものをすべて吐き出して顔を上げた時、ジゼルは言葉を失った。

 闇の中に光る二つの赤い目。

 その恐怖に煽られたかのように持っていた明かりが消え、周囲は真の闇に包まれる。ぞっと総毛立った。それはジゼルが懸念していた『よくないもの』だった。

「冥魔……!」

《死の庭》が作り出す呪いの一つ。闇の獣。冥魔。

 冥魔の出現は予測できない。単体でうろついていることも群れをなしていることもあり、姿形も一定ではない。死の力が高まった場所に突然現れるという噂があるが真偽はさだかではなかった。そのため襲撃を受けた小さな村はある日突然全滅しているということもある。旅人や商人たちが野生の獣よりも危険だと考える存在だ。

 傷をつけられれば呪いを受ける。全身が石のようになった挙句生きたまま腐り落ちるのだ。死んだほうがいいとさえ思えるほどの苦しみは死ぬまで続くという。

 冥魔はじっと獲物を見定めている。やがてその周囲に四つ六つと増えていく赤い目に、ジゼルは覚悟を決めた。

 動けば、襲われる。ここにいてもいずれ襲われる。

 だったら持っているものすべてを持って抵抗するまで。

 ジゼルは洋燈の持ち手を握りしめた。いつでも振り回せるように、そっと立ち上がって態勢を整える。冥魔の唸り声と引き絞られた目にその時が来たと思った瞬間――世界が赤紫色に染まった。

 しゃーん! という音が響き渡ったかと思うと太鼓を打つように大地が揺さぶられる。

 ――ギイイイイイヤアアアアアア!!

 轟く悲鳴。ジゼルが思わず側にあった木に縋ると、再び赤紫色の雷が落ちてきた。

 不吉な色の光に周囲が照らされたのは一瞬だった。ちかちかと眩んだ視界に冥魔はもういない。後には何も見えない闇と静けさが残された。

 そこに、ざり、と土を踏む音が響き、ジゼルは震えた。幹にしがみつく力は無意識に強くなる。ざり、ざり、がつっと土を踏み根を越える足音はこちらに近づいてくる。

 そしてジゼルに気づいて足を止めた。

「――誰だ。そこで何をしている」

 男だった。起き上がったばかりのような疲労感がある声。低く掠れているせいで年齢がわからない。姿を確かめようにもまだ視界が利かなかった。

「あ、なた……は……?」

 ジゼルの怯えた問いかけに「女か……?」と男が呟いた。相手が聞く耳を持っていることを知って、ジゼルの勇気が戻ってきた。

「あなたは、どなたですか……?」

 相手は答えない。様子をうかがっていたジゼルは揺らめくものを見てはっとした。

 男の右手が赤紫色の光を帯びていた。それは長い刃の形をしている。あの雷を呼んだものなのだと直感した。

(《魔具マギ・クォーツ》……!? 伝説上の物だと思っていたのに、使っている人がいるなんて……)

 魔術大国があった頃よりもずっと昔に作られてきた、人々が魔力を込めた道具。それを魔具と呼ぶ。伝説の剣、死を呼ぶ宝石など、多くは伝承にうたわれる品物だ。

 ジゼルは人影に目を凝らした。魔具らしき剣を持って冥魔を一掃した男。しかも城内を歩きこの森へやってこられる者。城の関係者、それとも。

 その視線に気づいたらしい男は、嫌悪感もあらわに言い放つ。

「去れ。この剣は人も魔も区別なくあらゆる命を奪う。死にたくないなら、早く行け」

 そう言って背を向け身体を引きずるように歩く姿は、死に向かう獣が歩む様に見えた。どきりとしたジゼルは、痛みをこらえるような呻き声を聞き取って思わず問うた。

「怪我を?」

「……、去れと言ったはずだ」

「放っておけません!」

 駆けつけようとしたジゼルの前を、ひゅんと風が切り裂く。

 赤黒い刃の先はその心臓を捉えていた。

「俺に同情していいのは、死に囚われた運命を俺とともにする者だけだ」

 絞り出すような声だった。

 直後刃が振りかぶられて空を切った。ジゼルは態勢を崩して座り込んだ。男は正確な剣の使い手らしく、倒れ込んだジゼルが剣を避けようとする前を切り裂いて威嚇する。

「わかったら早く行け!」

 吠えたてられた羊のようにジゼルは逃げ出した。離れたところで振り返ると、彼はじっとそこに立っていた。まるで無事に森を出るのを見送っているようにも見えた。

「――……」

 人には不相応な力を持つ、苦しむ影。

 ジゼルはぐっと胸元を握ると逃げた道を駆け戻った。そして驚き立ち尽くす男の頭に、自身が身につけていた肩掛けをふわりと被せた。

 言葉はかけなかった。望まれないとわかっていたからだ。呪いが強まる冬に、せめて一枚の肩掛けを渡すことだけが、今のジゼルにできることだった。

 気づけば目が闇に慣れ、困惑の表情の気配と注がれる視線を感じ取ることができた。ジゼルの青い瞳と男の黒っぽい瞳が交わる。

 だがそれも一瞬だった。今度こそジゼルはそこを逃げ出した。

 自分の部屋がある棟が見えた時にはほっとした。冷たくなった肩をさすりながら、再びあの男のことを思った。

 自分とは比べ物にならない不吉なほど強い力を手にした、彼。

 早く行けと言った強い声が胸に刺さって痛い。彼はいったいどこへ行こうとしているのだろう。運命をともにするという言葉を呻くように口にして、混じり合った視線に込められていた思いはきっと。

(……去れと言いながら、本当はひとりになりたくなかったんだわ)

「姫様!」

 呼びかけに顔を向けると洋燈を持ったリアラが、顔を白くさせて駆けてきた。

「お部屋に伺ったらもぬけの殻! 他国のお客様がいらしているというのに、誰かに見咎められたらどうなさるんです。青くなった私の身にもなってください!」

 今がその時期なのかと、ジゼルは日付を自覚していないことに気がついた。

「だったら早く戻らなくては。でも、どうしてこんな時間に私の部屋に?」

 リアラが声を低めた。

「ギシェーラ殿下がお呼びです」

 賓客がいる時期で忙しいのにどうしたのだろうと思っていると、リアラに部屋まで引っ張られてしまった。支度を整えて急いで姉の元へ向かう。早番の侍女や侍従たちがすでに歩き回っている時間帯だが人気のない回廊で風に頬を撫でられた時、ふとあれほどきつかった腐臭が和らいでいることに気づいた。

 空に黒々とした雲はない。地表をぬめらせる不快感はどこかへ消えた。あの、赤紫の雷光のせいなのか。漂っていた《死の庭》の力を吹き飛ばしたかのようだ。

(だったら心配だわ。あんな強い力を持った剣は、担い手の命を縮めてしまう)

 やはり名前くらいは知りたかった。そう思っていると、怒鳴り声らしきものを聞いた。

「……オルフ?」

 ギシェーラの部屋にいるのだろう。しかしあの温厚な青年が姉に向かって何を怒鳴るというのか。

「…………してだ!?」

 ジゼルは飛び込むように扉を叩くと、返事を待たず開け放った。

「どうして……」

 そこには崩れ落ちるオルフがいた。戸惑い見遣ったギシェーラの顔は白くも青くもない、平坦な灰色の石のようになっている。感情を意識的に殺し、冷静であろうとしているのだ。それが彼女の王族としての顔で、強い思いを秘めた表情だった。

 ギシェーラはジゼルに顔を向けた。瞳がきらめいている。涙の膜が覆っているからだ。差し伸べられた手を取ると強く握りしめられ、困惑した。

「何が、あったんですか……?」

 ギシェーラはきゅっと眉を寄せると、一枚の紙片を差し出した。一度に握りしめられたらしく大きく皺の寄った紙は、一目でわかる高級品だった。金粉が中に刷り込まれ、末尾に当たる部分に印が押されていた。草模様の印。それはこの世の神秘を統治する、神法機関の御印だ。

(神法機関から? いったい何が……)

 そこには短い言葉が記されている。


「汝を《死の庭》の乙女に任ずる」


 ――誰に?

「ジゼル・ユリディケ・ロイシア」

 部屋の隅から呼びかけられジゼルは振り返った。そこにいたのは神法機関から派遣されロイシア王国に駐留している神法司だった。

 ゆっくりと、理解がやってくる。この場で名を呼ばれたということは。ギシェーラが涙をたたえ、オルフが嘆いているということは。

 ジゼルの手から任命書が落ちる。

 神法機関の封印処置。《死の庭》の呪いを抑えるべく施されたきたのは護人を選ぶこと。――神の法に従って選ばれた者を、人柱として《死の庭》に立てること。

 神法司は言った。

「ジゼル・ユリディケ・ロイシア。あなたを《死の庭》の乙女に任じ、祈りの旅路を歩むことを命じます。この世の呪いを抑え、我らを救う人柱になってくれますね?」

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