《死の庭》の乙女たち

瀬川月菜

第1章 護人選定

1−1

 窓の向こうの冷たく凝った影のにおいを嗅ぎ取ってジゼルは眉をひそめた。冬の凍てつきに血と腐臭を混ぜ合わせた生臭い《死の庭シェオル》の風だ。

(《死の庭》の風は命を奪う)

 呪いの紫を帯びた冬景色からふと視線をずらすと、己の金髪と青い瞳が窓に映っていた。誰が見ても青白い顔は数日前まで臥せっていたせいだ。冬の厳しさと《死の庭》の風は元々丈夫でないジゼルの身心を削る。輝きのない目に映るのは見たくもない苦痛と死ばかり。背後にある執務机に広げた書類には、先月の死傷者数がまとめられていた。

 風が強くなる冬季に死者と病人が増えるのは東沿岸国の宿命だった。《死の庭》に近い土地は、その呪われた場所から吹く風にさらされ、常に病を得ているようなものだった。自らもひ弱だが、東の国ロイシアの王族としてはやりきれないものがある。

 呪われた死の庭。東果ての海の積乱雲が渦巻く場所。そこは人が踏み入ることのできない異界だ。数百年前に存在した巨大な魔術国家が治める大陸の消滅とともに死の風が生まれ、人々は病や土地に染み込んだ毒、冥魔と呼ばれる魔性のものに脅かされるようになった。そのため聖なる力を持つという神法機関が数年おきに特殊な封印を施している。

 前回の封印が施されてから十年。本来ならまだ保つはずのそれが弱まっていることを、五感とは異なる感覚でジゼルは感じ取っていた。魔法国家がその身を支えた力が世界から失われつつあっても、ジゼルには微弱ながらその力が宿っていた。

 ――そろそろ、世界のどこかから《死の庭》へ向かう護人ごじんがやってくる。この国の港から《死の庭》へ向かう船が出る。

《死の庭》へ至るには東海に出なければならず、このロイシア王国から船を出すのが最も一般的な経路とされていた。そうした積み重ねでロイシアは護人を送り出す土地とされ、神法機関の要請を受けて護人を警護する人員を派遣する習いだ。

 ジゼルは腕をさすった。赤々と輝く暖炉の火が爆ぜる。

 嫌な風だ。何が起こるか想像がついてしまう。

(お姉様に、病気が流行りそうだとお知らせしなければ)

 鉄臭さと腐臭、乾燥した冷たい空気は、皮膚や肺を損なうものになるだろう。昨年みられた皮膚病と肺病のことを思いながら、ジゼルは執務室を出た。続きの間にはお茶の用意を揃えた荷台を押してくる侍女のリアラがいて、出てきたジゼルに目を丸くした。

「姫様! どちらへ?」

「お姉様のところ。すぐ戻るわ。お茶を用意して待っていて」

「……その格好で、行かれるのですか?」

 ジゼルはスカートの裾をつまんだ。

「いけない?」

「いけなくは、ありませんけれど……ギシェーラ殿下は姫様の姉上様、おふたりが親しいことも存じております。でもさすがに、インクが飛ばないよう侍女と同じ前掛けをした格好で、王太子殿下でもあらせられるギシェーラ様の前に出るのは、ちょっと」

「でもこの前掛け、とても便利なの。袋がこっそりついているところがね。いろいろ入るのよ。はい、飴」

 気分転換する時に食べられるよう、入れていた飴玉を渡す。

「…………」

「あら、まだ欲しい?」

「誰もそんなこと申しておりません」

 そう? と言いながら前掛けを外し、リアラに託した。

「そうね、妹がこんな格好で歩き回っては恥になるわ。我がロイシア王国の第一王位継承者、誇り高いギシェーラ・ジュディス殿下には、私のような粗忽な妹は必要ない」

「姫様!」

「冗談よ。お姉様は私を必要としてくれているわ」

 非難の声を微笑みでかわして姉姫の住む本棟へと向かった。

 回廊に出た途端、外の空気を吸った肺の中をぐるりとかき回されるような不快感を味わって血の気が引いた。ささやかな魔力はジゼルに小さな予見という贈り物をくれはしたが、《死の庭》の気配をただびと以上に近く感じさせる。そして予見の力といっても、なんとなくそう思う、という程度で役に立つことはあまりなく、中途半端な魔力と超感覚は精神と身体に負担をかけるものでしかない。

 めまいを覚えながら執務室にたどり着き、近衛兵に訪問を告げる。やがて取り次いだ侍従が現れ、入室の許可が出たことを告げた。

 部屋に入ると、濃い蜜色の髪と青い瞳をした美しい女性が座っている。近くには王国を支える宰相ルベルトをはじめとした大臣たち、そしてもう一人、銀糸に近い金の髪をした青年の姿があった。ジゼルの心臓はどきりと高鳴った。

「やあ、ジゼル」

「オルフ……来ていたのね」

 レスボス公爵オルフの微笑みに、声の強張りが気付かれないようジゼルも微笑を返した。何を動揺しているのだろう。彼はここにいて当然の人だ。自身にも他者にも厳しい姉は、彼の同席や訪問を歓迎している。――二人は婚約しているのだから。

 しかしオルフだけでなく、大臣たちが並んでいるということは大事な話の途中だったのだろう。慌てて下がる。

「失礼いたしました。出直してまいります」

「いいのよ。何かあったのでしょう、ジゼル? お話しなさいな」

 低く落ち着いた声は、ジゼルのわずかな動揺を鎮めるように優しく響く。

 ギシェーラ・ジュディス・ロイシア。ジゼルの腹違いの姉。黄金を浸したような髪、宝石のごとき強い青の瞳。父王と母妃が亡くなった今、即位式を間近に控え、年上の側近たちと対等に渡り合える教養と聡明さを兼ね備えた美しい王太子。

 姉を見ていると、ジゼルは自分の未熟さを思い知らされる。だからと、ジゼルは必死に自分を磨く努力をしてきた。第二王女としての教養を身につけ、政治にも踏み込み、外に出て民の言葉に耳を傾けた。無理がたたって寝込むことは頻繁にあったが、ギシェーラのねぎらいの言葉を聞けば、足が痛むことも高熱にうなされることも耐えられた。自分は役に立っているのだと思うことができたからだ。

 大臣たちに注目される緊張で顔がこわばったが、ジゼルは《死の庭》の風が臭うこと、病が流行るであろうことを告げた。

「病? 何故そのように思われるのですか、ジゼル殿下?」

 大臣の一人に尋ねられ、ジゼルの心臓はきゅっと絞られるように小さくなった。

「……なんとなく、そう思ったのです」

「なんとなく、ですか」

 皮肉げに返された上、周りの者たちは失笑を漏らしていた。ジゼルは精一杯平静を保ったが、その甲斐なく羞恥で顔は真っ赤になり背中には汗が流れていた。

 根拠なく感覚だけで病が流行りそうだと言われても、彼らはまた過敏で虚弱な殿下が何か言いだしたと苦く思い、笑うしかないのだった。分かりきっていた反応だったが、直面するといつも恥ずかしさで逃げ出したくなる。

 だがギシェーラは違った。そうね、と言ったのだ。

「最近雨も雪も少ないわ。空気が乾燥しているのは間違いないでしょう。ありがとう、ジゼル。心に留めておくわね」

「はい……!」

 今度は嬉しさで頬が紅潮した。

 ジゼルを重んじてくれる人。それがギシェーラだった。にこりと応じた姉だったが、それで、と机の端にあった書類を引き寄せて政治家の顔になった。

「報告書が来ていたけれど、東海岸地域の死者をどうするつもり? 今年は数が多いわ。対処しなければそれこそ病が流行ってよ」

神法司しんほうしをもっと派遣してくださるよう、神法機関に掛け合おうと考えています。東海岸沿いに住む人々は《死の庭》の風に怯えて、やはり神法司による遺体の浄化と埋葬を望みますから……」

 神法司と聞いたギシェーラの顔に、一瞬強い感情が見えた。怒りなのか苦痛なのかよくわからなかったうちに消え去って、見間違いかと内心首を傾げる。恐らくそれはジゼルにだけ見て取れたもので、他の誰も気がついていないようだった。

「人の心を慰めることを優先したわけね。そう、機関へ寄進をはずんでやらなければならないか」

 低いつぶやきにはっとした。

「申し訳ありません。勝手に決めようとして……」

 ジゼルは肩を落としたが、ギシェーラは首を振る。

「こんなところで出し惜しみしないわ。よく進言してくれたわね、ジゼル」

 それを聞いてほっと心が軽くなった。丸まりそうだった背もしゃんと伸びる。

「いいえ。私はお姉様の手助けがしたいだけですから」

 常に冷静で凛とした姉は、ジゼルにとって誇りそのもの。王冠をいただいたギシェーラは、叙事詩にうたわれるような美しく聡明な女王になるだろう。その陰に控える自分を想像して満足したジゼルは、邪魔をしたことを詫びて退出しようとしたが、「待って」と呼び止められてしまった。

 ギシェーラが視線を動かすと大臣たちは辞去の言葉を述べて出て行く。部屋にはオルフとジゼルが残り、ギシェーラの口調は幾分か和らいだ親しいものに変わった。

「私の即位式に先んじて、近隣各国の代表を招く会を催す、ということは伝えていたわよね? その名簿ができたから見てちょうだい」

 差し出された書類を受け取る。ロイシアは小国であるから出席者もよく知った人たちばかりだが、一つ、目を引く名前を見つけた。

「ヴァルヒルムの王太子殿下? まあ、そんな大国の方がこの国に?」

「わけがあってね。王子の噂を聞いたことはあって?」

 考えて、首を振った。そうしてまったく聞いたことがないことに驚く。大国の王子ならば噂のひとつふたつ聞こえてくるのが普通だ。

「ヴァルヒルムの王太子殿下は南方に留学していた、らしいのだけれど、どうやらすぐにそこを抜け出したそうなの。行き先は、当時内乱の最中にあったアルガ王国南部地域」

 ジゼルは目を丸くした。

「どうしてそんな危険なところに」

「さあ……ともかく、数年経って国に戻った王子をお偉方は押さえつけたいらしいわ。逃げ出されてはかなわないから王子としての仕事を与えようとしているみたいね。そんな人物を迎えなければならない私たちの苦労も知らずに」

 ギシェーラは指を組む。まったく不思議な人物だと考えているらしい苦笑とともに。

「どういう方なんですか?」

「野蛮だとか粗暴だとか……いい話は聞こえてこなかったわ。ただ嘘か真かわからぬ噂がひとつ。アルガ王国は彼が平定させたらしい、ということ。そしてその噂を裏付けるかのように、王子が帰還したヴァルヒルムは常勝国となっているようよ」

 ジゼルは顎を引いた。

「……なんだか恐ろしい人物のように聞こえます」

 留学先から自国とその国の監視を振り切って、内乱国へ赴いて戦っていたような人物が、吹けば倒れるような青白い顔をした人物であるとは思えない。仮にも一国の王子だし、ロイシアに来たとして乱暴な振る舞いをするはずがないと思うのに、ジゼルの胸は急にどくどくと鼓動を打ち始めた。

(いつもの心配性のせい? それとも嫌な予感……?)

「私は当日あちこちに挨拶しなければならないから、特定の人物にべったりくっついているわけにはいかないの。もてなしはあなたや宰相に任せることになるわ。それから、あなたの見事な歌声を披露してもらいたいと思っているの」

 心臓がどきんと跳ね上がった。

「歌うんですか!? そんな、披露するほどのものではないのに……」

「あなたの歌声はどんな歌い手にも引けを取らないと思っているわ。やってもらえる? ジゼル」

 それはジゼルには荷が勝ちすぎているように思えた。だが頼まれるということは信頼されているということ。断る理由はなかった。うまく果たせるだろうかと不安にはなるが頷く以外の返答はない。

「おまかせください。ご期待に沿うように励みます」

「ありがとう、ジゼル」

 そう言われて微笑まれれば、何をしても果たしてみせると思えるのだ。

 詳しいことは外務大臣、侍従長や侍女長など、実務に当たる人々と相談してほしいと言われた。さっそく話し合いをしようと予定表を頭の中に書いていると「ギシェーラ」とオルフが呼んだ。ギシェーラもジゼルも、ここでようやくずっと黙っていたオルフに目を向けた。

「そろそろお暇するよ。君には休息が必要だろうから」

「悪かったわね、呼びつけたのにろくに構わなくて」

「一緒にいる時間を長くすることが大事だと思うから、気にしなくていいよ。それでは、失礼します。ジゼル、送っていくよ」

 ジゼルは飛び上がった。

「で、でもあの……」

「大丈夫、棟に入るのを見たらすぐに帰るから」

「送ってもらいなさい。私が喜ぶからと点数稼ぎをしたいだけなのよ」

「点数稼ぎとはひどいな。君たち姉妹への好意からなのに」

「わかっているわ。ただの軽口よ」

 婚約者たちはお互いを理解しあう微笑みを浮かべている。

 鋭い痛みを感じて息を吸い込む。お茶でもどうかと声をかけるべきか、茶菓子はどんなものが置いてあっただろう。そんな考えが消えて、心の中の自分が嗤っていた。そう、オルフはただ婚約者の妹を大事にしているだけ。

 さあ行こうと促されて部屋を出ると、オルフは近くにいた侍女に、ギシェーラにお茶を入れるよう手配してから歩き出した。ギシェーラが休憩を取るための気遣いだ。ジゼルは想像する――お姉様はオルフの気遣いにため息をつくだろう、そしてその心に従って静かにお茶を飲むのだ。彼が自分を思っていてくれることを感じながら。

「君たちが会話しているのを聞いていると、本当に姫君なのかなあと首を傾げてしまうね」

「賢しいと思う?」

「いいや。ギシェーラは君を頼りにしているし、僕も頼もしく思っているよ」

 オルフが柔らかくそう言って、ジゼルも笑みを返すことができた。

 ふたりでこうしていると《死の庭》の風が弱まる気がする。

 オルフの首元や袖口からかすかに漂う蜜のような香りには気づかないふりをした。

「私もお姉様が好き。大好き」

「君の昔からの口癖だね。髪もお揃いになるよう伸ばしているんだって言っていた」

 ジゼルは頭に手をやった。腰辺りまである金の髪は確かに姉を目指して伸ばしてきたものだ。艶も香りもまったく届かないけれど、長さは同じになった。

「そんな幼馴染みたちがもうすぐ妻と義妹になるなんてね」

 喉がひくついた。息を飲み込み、そっと吐く。無意識に握った拳はほどこうとしてもなかなかほどけなかった。目の奥の熱さに気づかれないことを祈りながら足を進め、やっと自室のある棟までたどり着くことができた。

「ありがとう。ここまででいいわ、オルフ」

「うん。……ジゼル、これを」

 彼はいつの間にか手にしていた白い花をジゼルの髪に飾った。それは森の中、梢に守られた土の上に咲くめずらしくもない花なのに、ジゼルは急に泣きたくなった。

「君の歌、楽しみにしているよ」

 オルフ。優しいオルフ。幼馴染みと家族になることを喜んでいる彼は、ジゼルが狂おしい恋情を抱えていることに気づかない。

「……ありがとう、オルフ」

 だからジゼルは自身の笑みが完璧なのだと知っていた。オルフは満足そうに笑って、ジゼルが部屋に戻るのを見送ってくれた。

 待ち構えていたリアラと他愛ない話をしながら思った。

(髪を、切ろう)

 すべてが終わったら。姉の即位式を終え二人の結婚を見届けたら、髪を切ろう。うんと短く。そうすればきっと何もかもが軽くなるにちがいない。

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