2−4

 どうしたの、ジゼル。

「怖いの。真っ暗闇の中に何かいるの。紫色の影が。みんな何もいないと言うけれどいるの、本当よ」

 それはあなたに悪さをするの?

「ううん。でも他の人がそれに触れられると光を吸い取られているように見える……」

 ……そう。でもそれは誰にも言ってはだめよ。怖がらせてはいけないから。

「うん。わかった。みんな私のことをもっと怖がるから、ね?」

 そうよ。あなたは賢い子ね。

「お姉様は何をしていたの?」

 勉強よ。

「勉強? お姉様、えらい」

 …………、えらくなんてないわ。こうしてきちんとやっておかないとついていけいないだけ。あなたのように得意なものもない私は、こうするしか……。

「……お姉様?」

 …………。そこに本があるからそれを読んでいなさい。眠ったら人を呼んで部屋に運んでもらってあげるわ。

「眠るまで側にいてくれる?」

 できるかぎりね。

「ありがとう。大好き、お姉様」


 それは、誰の夢だったのか。


       *


 運良く海は荒れず、穏やかな航海を経て、ジゼルたちはエスフォス島に入った。

 入港が制限されているという港はまるで打ち捨てられた場所のように静まり返っていて、居並ぶ神法司たちの出迎えが異様に感じられるほどだった。

「ようこそ、お越しくださいました。《死の庭》の乙女よ。ここは神法の島エスフォス。神の力の満ちる聖なる地です。明日には《死の庭》へ向かっていただくことになりますので、どうぞ穏やかな夜を過ごされますよう……」

 一つの島に時代を一つ遡ったような古い神殿が数多く建っており、失われた魔法の力が眠っていると伝えられている通り、人の手で作ったとは思えない見事な柱や高い建物がいくつも見られた。神法機関の本拠もまた古びた建物で、大勢の神法司たちがこの神殿に勤めているはずだが、人の姿を見ることは稀だった。たまにすれ違う者は目を合わすことなく早足で去っていく。

 ホメロスたち神法司は最後の祈りを捧げに神殿に行き、禊を終えたジゼルはさだめられたところで眠り、夜明け前に目が覚めた。

 島には魔法の力が働いているのだと感じられる数日ぶりに星が見える空の下、ジゼルは巡礼服を身にまとい、案内役の神法司とともに港へ向かった。

 これから《死の庭》へ船を出す。同乗するのは儀式を執り行うホメロスと、語り手と呼ばれる見届け役を務めるオルフだ。キュロやアイデスたちとはここで別れることになる。

 涙をいっぱいに溜めてキュロは言った。

「いっぱいお祈りします。シェオルディアの祈りが世界を平和にしますようにって」

(ありがとう、キュロ。どうか幸せに)

 護衛騎士たちも無事に旅を終えることを記念してくれた。

 そして最後にジゼルはアイデスと向き合った。失望もない平淡な瞳を見て、彼が自分に何の期待も抱かず、何の願いも叶えてくれないことを知った。

(そうね。あなたが救い、あなたを救うことができるのは、きっとあなたと運命をともにするひとだけね)

 アイデスがジゼルの覚悟を固めてくれた。逃げる勇気も覚悟もない自分を突きつけられて、この道を行くしかないと思えるようになった。逃げられないのならばせめて受け入れよう。弱々しい覚悟だったけれどそれがジゼルを支えている。

 だから丁寧に頭を下げた。彼が一応の礼を返して頭を下げたそこに、ジゼルは自身のまとっていた肩掛けを被せた。

(どうかあなたがその人に巡り合う時まで。これがあなたを暖めますように)

 この後捨てられたとしても構わない。これは死ぬ間際に足掻いているようなものだから。

 アイデスが顔を上げようとした。

 だがそれを見ずに船に乗り込んだ。すぐに出航の声がかかり、小さな船は東の果てへ向かって進み出した。


 ジゼルは初めて海を渡った。感じる冴えた空気と青い波を切る感触は心地よかったが、胸の奥にじわじわと広がる息苦しさは無視できないものになりつつあった。

 その時オルフが隣に立った。言葉はなかったが寄り添ってくれているのだと感じた。

 彼の瞳が堪えようのない熱に潤むのは、私を惜しんでいるからだと想像する。そのため息が震えているように聞こえるのは、言ってはならない言葉を飲み込み続けるからだと。

 彼は私を愛してくれている――幼馴染み、そして妹のようにして。

 最後に何を言おうかを考えた。キュロには別れの言葉を、アイデスには肩掛けを渡した。幼い頃から一緒だったオルフには何を残せばいいだろう。わからなかった。積み重ねた時間の中から見つけ出すには、ジゼルの思いはまだ生々しく鮮やかだった。

(オルフ)

 ジゼルはそっと呟く。

(あなたのことが好きだった。優しいあなた。残酷になれないあなた。それは弱さかもしれない。でもその弱さを守りたいと……その弱さで守ってほしいと思っていたのよ)

 抗えないものに嘆き、その波にさらわれながらも彼の愛が欲しかった。それがたとえ自分を救ってくれることはなくても。

 ジゼルはオルフの手を取った。そこに書きつけた紙片を握らせる。

『お姉様を守って。幸せにしてさしあげて』

 思いのままに綴ったそれをオルフの目が追っていく。

『《死の庭》の乙女がお姉様でなくて本当によかった。お姉様はロイシアに必要な方よ。あなたはどうかお姉様を支えて国を守って。そして二人で幸せになって』

 うん、うん……とオルフは頷いていたが、不意にその顔がくしゃりと歪んだ。背けた顔、震える肩に手を伸ばしたかったが、自分の悲しみは彼と同じものでないと知っていたから、ジゼルはそっと手を下ろした。

(私たち、婚約者でなくてよかったわね)

 それは心からの言葉だった。

(私たち、愛し合っていなくてよかった……)

 しばらく涙を飲み込んでいたオルフは大きく息を吐いて顔を上げた。そして、ジゼルに無理やり作った笑顔を見せる。

「……君たち姉妹は、本当に似たような字を書くんだね。君のこの字。ギシェーラの昔の字にそっくりだ」

 ほらと彼はある文字を指す。キュロも言った、花の形に似てしまう癖字だ。

「子どもの頃ギシェーラから手紙をもらったことがあるんだ。署名はなかったけれど包帯と薬を添えて、僕の勇気に感動したなんて書いてあったんだよ。後日あれは君なのかと聞いたら、ギシェーラは、」

 ギシェーラは。

「そうよって言った。僕はあのとき彼女のことが好きだと思ったんだ」

 ああ。

 ああ、オルフ。

 世界を支えていた柱が崩れる音を聞く。頭がぐわんとたわみ、見開いた目から熱が吹き出した。

(オルフ)

 声は届かない。悲鳴は。

 オルフ、それは。

 あなたに手紙を書いたのは。

(それはお姉様ではない――)


 やがて雲が天に向かって渦巻く海域に来た。空も海も支配する大いなる力を抱くその場所は、黒く突き立った岸壁の洞窟を入り口としてジゼルたちを迎え入れた。

 濡れた岩場の内側は光鉱石が含まれているらしく、薄紫色や緑色、薄黄色にちらちらと光っている。ごつごつとして滑りやすい洞は長く続いた。ぴしゃんと滴が滴る音が響き、歩むごとに生き物の気配は遠のき潮と死の臭いが増した。

 突き当たりに来ると、ホメロスが朗々と声を張り上げた。

「《北の星、西の月、南の大地に時を縒る。

 東に昇る天空そらにて光を選り、作りし鍵を中天の太陽に捧げん。

 開けよ扉、さだめられし者の前に》」

 鍵を回すような音がした。

 目の前の岩がふっと溶けて消え、さらに道が続いている。ホメロスに促されジゼルは一歩を踏み出した。

 たった一歩、それだけで暗く湿った洞窟は消滅し、鏡のような世界が広がっていた。空は硝子の器のように丸く、鏡になった大地がそれを映している。だがジゼルの戸惑いで揺れる裾が波紋を描き出し、地の果てまで揺れていった。清らかな水が平らに地を満たしているのだ。

「語り手殿はそちらでお待ちください。シェオルディア、どうぞ奥へ」

 ホメロスがそう告げ、言われるがままジゼルは進んだ。そこまでと言われて振り返ると、彼は離れたところで教典を開いている。

 頁をめくったホメロスがジゼルを見た。

「――《瞑想する空よ、我が声を聞き給え》」

 いん、と声が響く。

 儀式が始まったのだ。

「《黎明よ。柱たる白鳥の羽ばたきがお前を息吹にする》」

 足元の水がぼこぼことうねり始めた。どこかから浮かび上がってきた泡が弾けて音を鳴らし、大きな波を生み出す。服の裾が翼のようにはためき、あたかも鳥が海に向かって落ちていくようだった。

「《払い給え、終を。攫い給え、死を!

 迷い吹く風よ、白き乙女の微香を抱け。

 汝の行き先は世の終わりと死の果て》……」

 熱い。ジゼルは焼け付く喉を押さえた。刻まれた神法の印が輝いている。

「《乙女の言葉がお前を導く》」

 小鳥の断末魔で喉の呪印が弾け飛ぶ。

「《乙女のまなこがお前を見つめる》」

 びしりとひびが入り、次の瞬間仮面が足元で粉々に砕け散る。まばゆい世界にジゼルは強く目をつぶった。身体の奥で大きなものが吹き荒れている。言うべき言葉、さだめられた音律が浮かび上がる。

「《天と地とその狭間の風よ。

 この声が聞こえたならば。

 乙女の誓いを欲するならば。

 削いだお前を我らに与えん。

 すなわちそれこそ契約なり。

 乙女の歌を聞き届け給え》――」

 そして生み出される。ジゼルのものではないどこからかの言葉が。

 歌になる。


  永遠のお前

  邂逅する私

  死の風はお前の嘆き 罪深き我らに与えられた罰

  お前を抱こう 泣かぬように腕を捧げ

  お前を見よう 愛するために瞳を与え

  この声はお前のもの

  お前のためだけに歌われるもの

  ゆえに我が名は……


「我が名は――《死の庭》の乙女」

 波が引いた。泡が消え、静寂が満ちる。

 それも息を吐くまでのことだった。空の向こうから轟音が鳴り響き、巨大な波が押し寄せる。異界がジゼルを呼んでいた。

 契約は成されたのだ。

 ホメロスが教典を閉じて後ろへ下がる。聖職者らしく冷静に見届けようとする態度とは裏腹に、圧倒的な不可思議に対して目を輝かせていた。奥で見届けていたオルフはこちらへ踏み出しかけたものの動くことができずにいる。

 波の飛沫が、風のすべてが、《死の庭》の乙女を求めている。

 髪が解け空に広がる。姉と同じように伸ばし、だが同じにはなれなかったジゼル・ユリディケという人間の哀れな象徴だ。

「――勇気のない私をお許しください」

 七日ぶりに発した声は軽くささやかで、自賛でも美しい声として響いたように思った。

「勇敢に立ち向かうあなたの姿に胸を打たれました。そして何もできなかったことを恥じました。たった一言制止することすら私にはできなかったのです。でもあなたは戦いました。私はあなたに、強い輝きを見たように思いました」

 声は届いているがオルフの表情は訝しげだ。

「その輝きに力をもらったように思います。だから私は、私の愛する人を守るものになりたいと思います……」

 オルフは、はっと息を飲んだ。

 ジゼルは微笑む。

「……ささやかながら薬と包帯を添えます。あの子犬が早く元気になりますように……」

 正確なところは無理でも自分が何を書いたかは覚えているものだ。

 目を見開くオルフは気づいただろう。

 優しいオルフ。誰かを慈しもうとしながら非情になれず、結果多くのものを傷つけてしまう、私の知る中で最も残酷なあなた。

 ねえオルフ。あなたが愛するきっかけになった手紙はね。あの差出人は。

 ――あれはギシェーラではないのよ。

「ジゼ――っ!!」


《死の庭》がジゼルを飲み込む。

 ジゼルが最後に見たものは、最も愛し、最も憎んだひとの、後悔と絶望の表情だった。

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