2−3

 その後どのような話し合いがなされたのか、翌日の出発時には新しく護衛隊に加わった三人の姿があった。特に挨拶をすることもなく一行に加わった彼らだが、ホメロスはできるだけ彼らとジゼルを接触させたくないらしく、常にその動きに目を光らせていた。そして三人もまたそれを察して近づいてくることはなかった。

 ただ時々見られているのは感じられた。一瞬でも気づくことができるような、焼きつくように強さを持った視線だった。

 ジゼルは馬車の中でキュロと筆談しながら、二日目、三日目を過ごして森を超えた。空は常に雲が覆い暗く湿っているが冥魔に襲われることなく、旅は順当に進んでいた。

「シェオルディアの字って、特徴がありますよね。私の名前を書くとき、頭文字が花の絵みたいに見えます」

 旅を始めて四日目に滞在することになった神殿で、古い詩や物語を書写したり字体を作ったりとささやかな遊びに耽っていたときのキュロの言葉だった。

 キュロが指し示した文字をジゼルは改めて眺めてみた。キュロは伸びやかで大きな子どもらしい字を書くが、ジゼルは最初の文字を大袈裟にしたり、単語が続け字にしたりと装飾的な筆跡になるよう教育を受けている。だがギシェーラの教本のような美しい字に比べて、ジゼルの字はあくまで手癖といった印象だ。こういうところも劣っているのかと少々落胆する。

(今頃お姉様はどうしているのだろう。オルフがこちらにいて、寂しい思いをしていなければいいんだけれど……)

 それともたかだか四日と笑うだろうか。けれどギシェーラは寂しいと思ってもその感情を消化して口にしないところがあるのだ。自分の感情に対して姉はいつも淡白だった。感情に振り回されるよりもやるべきことがあると、いつも割り切ってしまう。そういうところを守ってさしあげたい、とジゼルは思うのだ。

 ジゼルは軽く首を振って別の話題を紙に記した。

『どうしてアイデスは私たちと一緒に来たんでしょうね?』

 祈りの旅路は神法機関と各国の協力によって進められる。オルフたちはロイシア王国からの派遣でやってきているが、神法機関は直接傭兵を雇うことができないため、アイデスたちは報酬を受け取ることはないだろう。金銭以外の理由があって護衛に加わったのは間違いなさそうだ。

「シェオルディアに一目惚れ! とか」

 キュロがぽんと手を打ったがさすがに苦笑するしかない。

(私と一度会ったことに気づいていないようだし、ろくに話していない上にこの仮面だもの。好意を抱く方が難しいでしょう)

「そうでなければ、どういう理由があるんでしょうか……オルフ様はお知り合いみたいでしたけど、理由はご存知なさそうでした」

 そういえば彼らは顔見知りのようだった。オルフはアイデスに礼儀を尽くそうとしているし、アイデスもオルフの身分を知っているようだ。だがジゼルには見覚えがない。ロイシア王国の人ではないのだろう。

「アイデス様に直接聞いてみますか? どうして護衛になられたんですかって」

『答えてくれない気がするわ』

 キュロは小さく笑った。

「確かに。ちょっと怖い感じがします。アイデス様は、時々夜遅くに一人で散歩されてるみたいです。その時はあんまり怖くない感じがするので、お話できるかもしれませんよ」

『じゃあ、機会があったら聞いてみるわね』

 そう答えながらも聞くことはないのだろうと思った。

 夜、風がうるさくて目が覚めた。耳の奥には眠りながら聞いていた風の唸り声が残っていて、身体がだるく喉が渇いていた。隣の寝台にキュロはいない。ホメロスやアイスとともに夜の祈りを行っているのだろう。

 隣室にはオルフが詰めているはずだから飲み物を頼もうと思い、扉の前まで行くと、低い話し声が漏れ聞こえてきた。

「…………してこんなところまで……国に戻られなくてよろしいのですか?」

「いつもの放浪癖だと思ってくれているさ。後は貴公が黙っていればいい」

「……ギシェーラ殿下を裏切るわけにはいきません」

「貴公の婚約者だったな。そういえば妹姫がいたと聞いたが」

 ぎくりとジゼルは固まった。

「何故ギシェーラ王女が婚約者なんだ? 自国の貴族と結びつきを強めたいのはわかるが、姉妹といっても二人とも正妃の子ではなく、生まれ月も一ヶ月と違わんだろう」

 ジゼルは扉を凝視した。その向こうにいる彼はどうしてそこまで知っているのか。

 父王には三人の妃がいた。正妃は他国の姫で、ロイシアの風が合わなかったのか子どもを為さずに若くして亡くなり、新たな正妃が迎えられないまま二人の妃が玉座に並んでいた。どちらも伯爵令嬢、身分も立場もほぼ同等、姿形も似通っていて、同じように女の子を産んだ。それがギシェーラとジゼルだ。姉妹仲はよかったが、その性質は真逆だ。ギシェーラは生まれた日と同じように晴れ渡った真昼の光の恩恵を受けた美貌とはっきりした性格、ジゼルは雨風の強い暗い夜のように影をまとった気弱な性格だった。

 輝かしいあの人だからオルフに選ばれたのだと、ジゼルは思っていた。

「……彼女を愛していたからです」

 その返答は夜の闇もろともジゼルを引き裂いた。

「誰だ」

 逃げ出す間もなく扉を開けたのはアイデスだった。オルフがぎょっと息を飲み、アイデスは不快そうな顔を隠さずに言った。

「こんな時間まで仮面をつけているとはご苦労だな。闇の中にそれが浮かび上がっているのは薄気味悪いにも程があるぞ」

「アイデス殿」

「正直に言って何が悪い」

 そう言われて安堵感を覚えたジゼルだった。確かに銀の仮面をつけた人間が夜にうろついていたら、気味が悪いだろうし驚くだろう。

「どうしましたか。眠れないのですか、シェオルディア?」

 オルフの陰った表情に胸の痛みを覚えながら、飲み物が欲しいと手を動かした。オルフは「一緒に行きましょうか」と席を立つ。

「レスボス公」

 アイデスがそれを呼び止めた。

 彼は口元をわずかに覆ってはいたが、愉快そうに歪めた表情を捉えることができた。

「――『それ』は生贄だ。情を移してはならない。たとえお前の身内であったとしても」

 棒のように立ちすくんだオルフとジゼルだったが、ジゼルはすぐに我に返ると急いで扉を閉めた。その刹那くっと喉を鳴らし、顔を背けながら笑ったアイデスの姿がジゼルの目に焼きついた。

(――ひどい人)

 知り合いだろうと推測して、なのに切り捨てろという。オルフにそんなことできるわけがないと知己なら知っているだろうに。

 オルフの顔は血の気がない。話を聞かれたことに気づいていて、なのにジゼルに対して怒るのではなく自身を後悔で責めているのだ。ジゼルは彼の手をぎゅっと握るとその手のひらに指で文字を書いた。

『大丈夫よ、怒ってなんていないわ』

 オルフの強張りがゆるゆると解けた。「ごめん」と苦笑まじりに小さく言う。

「話をするのは久しぶりだね……君が今どんな顔をしているんだろうかと思って……とても寂しい顔をしているとわかっているのに、どうしても話しかけられなかったんだ」

『人目があるもの。わかっているわ』

 大丈夫よと笑っていることが伝わることを願って書く。

『あなたは大丈夫? アイデスはとても厳しい人ね……。どうして彼は祈りの旅路に同行するなんて言ったのかしら。あなたは知っている?』

「いや、僕も何度か聞いているんだけど、いつもはぐらかされてしまう」

 仕方のない人だと肩をすくめあった。

「……そろそろ眠った方がいい。飲み物を取ってくるよ、部屋で待っていて」

 触れ合っていた手が離れる。それが寂しかった。もう少し、と望む自分がいた。

(……だめよ。だって彼はお姉様の……それに私は……)

 思いを拭った時、ふと浮かんだのはアイデスの赤い目だった。素直で苛烈で正直な光を宿した、彼の。


 予定通り港街クルーザに到着した一行は、神殿が用立てた船でエスフォス島へ渡る算段をつけた。神法機関の本部があるその島で禊を行い、《死の庭》へ渡るのだ。旅の終わりが見えつつあった。

『この旅が終わったらキュロはどうするの?』

 少女の眉間に不安を表す皺ができたが、すぐに笑顔で答えた。

「しばらくエスフォス島で修行することになると思います。五年経ったら任地が決まるので、どこかの神殿の神法司になります」

『聖職者になるのね。修行はとても厳しいでしょうけれど、あなたならきっと大丈夫よ』

 手を伸ばして頭を撫でた。

『あなたはきっと今のまま優しい大人になるんでしょうね。あなたの言葉に慰められる人がきっとたくさんいるわ。だから素敵な大人になってね』

「シェオルディア、やだ……そんな……」

 彼女が飲み込んだ通りそれは別れの言葉で、祈りだった。ジゼルには祈ることしかできない。この神法司の見習いの少女や、ギシェーラ、オルフたちの未来の幸せを願うことしかできないのだ。

『甘いものが食べたいわ』

 常套句に頷いたキュロは涙目を拭って買い物に出て行った。

 ひとりになったジゼルはこっそり部屋を出た。小高い場所にある神殿からは、昼だというのに嵐を思わせる重い雲が立ち込める東の海を見ることができる。あの海の向こうがジゼルの果てなのだ。

(お姉様)

 逃げてはだめよとギシェーラなら言うだろう。そして彼女はきっと逃げないだろう。

(お姉様、どうして私なんですか……?)

 膝が緩やかに崩れ、衣装の裾が広がった。地面の上できつく手を握りしめる。

 まだ何も成せていない。残せたものもない。人々が当たり前に得る幸福を手にいれることもままならなかった十七年の人生だった。いっそ記憶がなくなってしまえばよかったのに。声だけでなく目も耳も聞こえなくなって何も感じなくなってしまえば、こんなに逃げたいと思うことはなかっただろうに。

 涙が頬を伝う感触があったけれど、顔を覆う仮面はジゼルの感情を隠してしまう。

「泣くくらいならば逃げればいいだろうに」

 だがそれを見て取った男がそう言った。

 背後に立っていたアイデスは、軽蔑を含んだ目でジゼルを射竦める。

「逃げて自らの運命を掴みとればいい。何もかもを犠牲にして困難な道を歩む覚悟を決めればいいだけだ。嘆くよりかはよほど意義ある行動だろう」

 アイデスが視線を投げたのでジゼルは同じ彼方を見遣った。涙で濡れた仮面越しの狭い視界には、紫色を帯びた雲が映る。

(逃げてみたいわ……)

 それは終わりのない旅だろう。選ばなかった道を何度も思い返して後悔するのだ。

 ジゼルは立ち上がった。一歩足を引いて手を重ね、淑女のように凛と立って海の向こうを見つめる。

「……逃げないのか?」

(逃げないわ。……逃げられないもの)

 この空の下で泣く者がいる。けれどそれは私ではないと思ったのだ。書類の上でしか知らない死者たちとその家族。親を亡くしたキュロのような子どもたち。突然冥魔に襲われる人々、呪いを受けて苦しむ人々。ジゼルは彼らを知っている。

 彼らを救うために選ばれたジゼルがひとり涙を飲み込めばいいというのなら、それは価値のあることなのだと思う。

 だがアイデスがそれを聞いたなら、それが楽だからだろうと言うに違いなかった。

「お前もまたその運命に抗えないか」

 呟いたアイデスの瞳に失望を見る。深い、絶望と同じ色をした。

「お前にも俺の運命を変えることはできないんだな」

 声の冷たさは風となってジゼルに吹き付けた。

(あなたはどんな運命に囚われているというの? その剣に関することなの?)

 視線に気づいたアイデスは顔を歪め、腰に帯びた剣に触れた。

「お前にはこの剣が何なのかわかるのか。《死の庭》の乙女に選ばれるだけはある」

 乱暴に柄を叩く。

「俺は見定めたかった。俺の運命を変えることができるのが《死の庭》の乙女だと思ったからだ。だが《死の庭》の乙女もただの人だな。逃げることも選べない哀れな生贄だ」

(私も思ったわ)

 彼を見つめてジゼルは心の中で語りかけた。

(私はただの生贄。死の気配を強く感じるだけの、なんの力もない、ただの供物なのよ)

 だから私はあなたを助けることはできない。

 アイデスは踵を返し一度も振り返ることははなかった。ジゼルはただひとり願うことしかできない。

 ――どうか。

 だれか、たすけて。

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