2−2

 神法機関が所有する神殿が《死の庭》の乙女の宿になる。神殿長に迎え入れられ、ジゼルはキュロを連れて護衛隊とは離れている奥まった一室を与えられた。

「わたしがお世話させていただきますので、なんでもおっしゃってくださいね! あ、でも食事とか、仮面を外される時には出て行かなくちゃならないんですけど……」

 わかっているわと頷く。物を書く手振りをすると、キュロは部屋を飛び出し、あっという間に紙と筆記具を持ってきた。

『お腹は減っていない?』

「わたしは大丈夫で、」

 ぐううう、と元気良くキュロの腹の虫が鳴いた。ジゼルは隠しの部分を探り、持っていた飴玉を握らせた。おあがりなさいなと手を動かすと、彼女はぶんぶんと首を振った。

「も、もったいなくて食べられません!」

『じゃあ後で食べて。さっきは緊張したでしょう。頑張ってね、キュロ』

「はい!」

 元気よく首を縦に振ったキュロは、空腹の自分を置いて手早くジゼルの食事を整え始めた。質素だが十分な量がある食事が揃った頃、ホメロスがやってきた。彼はキュロを外に出し、ジゼルの仮面の額に手を置く。

 異国語のような呪文が唱えられると、顔を覆っていた膜のようなものが消え失せるのを感じた。すると仮面が外れ、久しぶりに外の空気を直接嗅げるようになった。

「お苦しかったでしょうが、我慢ください。食事を終えられましたら仮面をつけるようお願いいたします。つける時には呪文は必要ありませんので」

 こくりと頷いたのを確認してホメロスは去っていった。ジゼルは用意されていた手巾で顔を拭き、食卓に着いた。

 精神を鍛えるために神法司たちが食すという、塩と薬味で漬けられた野菜とぼそぼそとした塩気のない麺麭を咀嚼し、葡萄酒で喉を潤した。一人きりの食事はいつものことだったが、誰の気配もない部屋で食事をする寂しさが急に沁みた。

 喉に触れる。気晴らしに歌うことができたらと思ったのに、姉が褒めてくれた歌声を失ってしまった。

(いっそ抜け出してしまおうか……)

 だが騒ぎになることを考えると実行できない。取り返しがつかないことになれば、世界中の人々が苦しむことになる。そこにはギシェーラも含まれているのだ。

 でも結局、動く勇気がないのだ。わがままになりきれず意志を貫く強さもない。

(弱虫で臆病で、中途半端な私……)

 食事を終えると仮面を被った。仮面が顔に触れると輪郭が溶けるようにしてぴったりと貼りついた。顔を隠すことで好意を伝えることはできなくなったが、自分の弱いところを見られることはなくなったのはよかったのかもしれない。

 扉が叩かれ、少しの間を置いてキュロが姿を現した。

「……シェオルディア? どうしたんですか、もしかしてお腹が痛いんですか!?」

 ジゼルが俯いていたので何かあったと思ったらしい。だがジゼルは首を振り、筆記具を手に取った。

『大丈夫よ。何か甘いものが食べたいわ。神殿の食事ってとても味気ないの』

 納得しきれない様子だったが、ジゼルが両手を合わせるとしぶしぶ頷いた。

『砂糖菓子が食べたいの。買ってきてもらっていいかしら。お金は』

 そこまで書いたのを読み取ったキュロが「ホメロス司にいただきます、大丈夫です」と先んじて応え、いってきますと飛び出していった。ひとりになりたがっているのを察してくれたのだろう。

 お菓子は少しだけつまんで、後はすべてキュロに食べてもらおう。あの子はきっと感じなくてもいいものを感じ取ってしまう子だ。多くの人が感じ取れないものを知ってしまうことは、大抵の場合辛いものだとジゼルは知っている。

 文字を綴った部分を破り取り蝋燭の火に落とした。もろく壊れやすい高級な紙片が燃えて消えるのはもったいないと思いつつも、何故か目が離せなかった。燃え尽きてしまえばいい、何かも。脳裏に浮かぶのは、あの任命書……。

 火を見つめていたジゼルは、不意にその光が強くなっていることに気づき、辺りが暗くなっていることを知った。

 日暮れにはもう少し時間があるのに雲が集まってきている。墨色の光景は嵐の訪れを感じさせる。

(不吉な雲……キュロは大丈夫かしら)

 扉が叩かれたのでほっと胸を撫で下ろしたが、現れたのはホメロスだった。

「シェオルディア。キュロは戻ってきていますか?」

 首を振ると彼は眉をひそめた。だがその懸念を口にすることなく、頭を下げて訪問を詫びる。

 その時、ばん! と音を立てて窓が開いた。

 強すぎる風が窓の金具を破壊して入り込み、部屋中のものを巻き上げていく。突き刺す冷たい気配と腐臭に、ジゼルは声なき悲鳴をあげた。

(《死の庭》の風!)

 強烈な死の気配がジゼルの意識をさらう。ふうっと血の気が下がり、一瞬意識が遠くなった。気づけば床に座り込んでおり、ホメロスが窓を閉めるところだった。

「……すごい風ですね。大丈夫ですか、シェオルディア」

 胸が悪い。食べたばかりのものを吐き出してしまいそうだ。青くなった顔でホメロスを見上げて愕然とした。平気な顔。神法司だというのに彼は死の風を感じていないのだ。

 するとホメロスは今気づいたといった様子で呟いた。

「ああ……そういえば、あなたは感覚が鋭いんでしたね。なるほど、それは大変だ」

 うっすら笑みすら浮かべて今にも嘔吐しそうなジゼルを見ている。それがどういう意味なのか考えられないでいたところで、慌ただしい足音とともにアイスが駆け込んできた。

「ホメロス司、おいでですか! 街に冥魔が現れました!」

 ジゼルは鋭く息を飲むと、アイスの裾をつかんだ。

(キュロは!?)

「シェオルディア?」

「冥魔が現れたのですか?」

 ホメロスに問われ、アイスは強張った顔で頷く。

「はい。どうやら商店が多く並ぶ通りでのことらしく、買い物客が襲われたのだという報告がありました」

「そうですか。では浄化せねばなりませんね。準備をしましょう」

 淡々と言葉を交わす姿を見て、ジゼルはようやく思い出した。彼らは神法司。武器を取らず、祈りと奇跡ですべてを行う者たちだ。誰か一人のために必死になることはない。

 だからジゼルは走り出した。アイスの横をすり抜け、神殿の入り口へ。

 後ろからホメロスの「追いなさい!」という声がし、アイスの足音が続いたが、誰に追いつかれることなくジゼルは入り口にたどり着き、そこで報告を聞いていたらしいオルフを見つけ、飛びついた。

「っ! ジゼっ……シェオルディア?」

(キュロが街にいるの! 冥魔に襲われているかもしれない。助けに行かないと!)

 必死な訴えは紡ぐ端から喘ぎになって消えていく。

「街に冥魔が現れたそうです。僕たちが行きます。大丈夫ですよ」

 優しく手を添えてオルフは言ってくれたが、キュロのことはわかってくれない。彼は言葉通り街の人々を守るだろう。キュロも住民も平等に。

 だがジゼルが感じたのは、浅く平たい失望だった。

 私の声は《死の庭》の風にかき消されてしまう……。

 ジゼルは街を見やると、ぐっと顎を引いて一気に駆け出した。オルフやアイスを含めたその場にいた人々がジゼルから気をそらした瞬間のことだった。

 巡礼の衣装が足にまとわりつく。靴はぬかるみにはまってあっという間に泥で汚れた。姉が見たら眉をひそめるであろう、優雅とも悠然とも言いがたい必死な姿だ。家に逃げ帰る人々や神殿に向かう人々の流れに逆らっていく。その方向に冥魔がいるはずだ。幸いにも大通りを練り歩いたおかげで商店があるという通りは察しがついた。

 どこかの店から悲鳴があがり、人々が通りにあふれ出すように逃げ出してきた。その後ろから黒い炎の塊のようなものが現れる。

 四つ足の獣の形をした冥魔だった。建物内に出現したのだろう。冥魔は屋根も壁も関係ない。古くからある魔法の力が宿った聖域だけがその侵入を拒むことができる。

 地面に倒れこみ立ち上がることができなかった男性客に、黒い獣が飛びかかる。男性の身体から黒い炎が立ち上ると、彼はがっくりと力をなくして動かなくなった。呪いを受け、生命力を食われたのだった。

 炎は再び獣の姿になると、赤い目を爛々と光らせて低く構えた。その先には倒れこんだ老人とそれを起こそうとしている少女がいる。

(キュロ!)

 ジゼルは走った。走って、二人を突き飛ばした。もつれるようにして倒れこんだ三人を捉えられなかった冥魔が、離れたところで苛立ったように石畳を掻いている。

「シェオルディア!」

 叫ぶキュロと彼女が庇う老爺を抱え込み、冥魔を睨みつける。

 不安に青ざめた顔を見られなくてよかった。無機質な仮面はきっとジゼルを冷静に見せてくれることだろう。巡礼者の裾の長い衣装は震える足を隠してくれる。ジゼルはゆっくり立ち上がり、目を細める魔の獣に向き合った。

 だからといって何かできるわけではない。逃げるわけにはいかないだけだ。

 冥魔が地を蹴った。キュロがシェオルディアと呼び、ジゼルが冷たい呪いを覚悟したそのときだった。

 ――しゃーん!

 鳴り物のような音が響き、視界が赤紫色に塗り潰された。

 ――イイイイイアアアアアアア!!

 眩んだ視界が元どおりになり、光と色と形が認識できるようになると、ジゼルは黒雲が吹き飛ばされ丸く開いた青い空を見た。透き通った、磨いた金属のように輝く空。汚れた大気は清められている。

 ジゼルの前には男が一人立っている。

 波打つ赤い髪を束ね、黒紅色の瞳をゆるく伏せ、空と同じ気配のする風に外套を翻す、二十代前半らしき男だ。まだ少年らしさを残した顔立ちは、しかし深く刻まれた眉間の皺によって厳しい印象を与えている。手には大振りの剣――それは赤紫色の光を立ち上らせて、悲鳴とも唸りともつかない鳴き声をあげていた。

 ジゼルはそれを以前見たことがある。

 もう一度男を見る。知性と荒々しさ、どちらを選ぶか悩むような顔つきをしている。大人になりきれず子どもにも戻れない迷う者の相貌だ。

 あのときはすべてが夜と森の闇に沈んで何も見えなかった。だがあの禍々しいほどの力を持った剣はこの世にふた振りとあるまい。

 魔法の剣を手にした男は、呆然と見上げるジゼルに、くつりと顔を歪めた。

「《死の庭》の乙女か」

 乱暴で粗野な態度。そこに浮かぶのは軽蔑と憎しみだ。

「シェオルディア! 無事だね!?」

 馬を駆って現れたオルフはジゼルとキュロを見て安堵の息を吐いたが、剣を納める男を見た途端ぎょっと目を丸くした。

「あなたは……!」

「……レスボス公? 貴公が護衛か。ギシェーラ王女も思い切ったことをする」

 そして男もオルフを見知っていたらしい。そう言って皮肉げに顔を歪めた。

「どうしてこんなところにあなたのような方が……」

 すると、しいっと男は指を立てた。唇が悪巧みをする時のように弧を描く。

「俺は『アイデス』だ、レスボス公」

 オルフは何か言いたげにしていたが、追いついてきた騎士たちや何度も礼を言う老爺の相手をするためにひとまず置いておくことにしたようだった。それを横目で見ながら、ジゼルはキュロの手を取って、服についた埃や汚れを叩いて落とす。

「シェオルディア……ごめんなさい」

(いいのよ。私の方こそごめんなさい。無事でいてくれてよかった)

 キュロが胸元にしがみついてきた。その柔らかい髪を撫で背中を叩いてやっていると、アイデスと呼ぶ声がした。彼の仲間らしい男が二人やってきて何か言葉を交わしている。

(あの剣……)

 忠告すべきだろうか。その剣は危険すぎる、使わない方がいい、でないと命を縮めてしまうと。だが持ち主がそれに気づいていないわけがないだろう。彼の目的は、一体。

「はあ!?」

 彼と話していた緑の瞳の青年が素っ頓狂な声をあげた。自身の声の大きさに気づいて声量を落とすが、三人の顔は難しい。アイデスだけが皮肉げで寂しい顔をしている。

 そのアイデスが手を振って話を打ち消したようだ。そのまま仲間たちを顧みず「レスボス公」とオルフを呼ぶ。

「貴公ら、人手は足りているか?」

 オルフは面食らっていた。

「俺たちを護衛として旅に同行させてもらいたい」

 聞いていたジゼルも驚いた。オルフは警戒するように顎を引き、低い声で返答する。

「人手は……必要な数を揃えています」

「通常なら、の話だろう? どうやら今代の護人は相当無鉄砲なようだが」

 彼の目がジゼルに向けられ、心なし足を引いた。脇目も振らず駆けてきたために足元はどろどろだった。

「それに俺なら一撃で冥魔を追い払える。どうだ?」

「しかし……」と口籠ったオルフの袖を引き、キュロの手を見せた。擦り傷を作って血の滲んだ手を早く手当てしたいのだ。

 オルフはその意思を汲んでくれ、一度神殿に戻ることを決めた。そしてアイデスたち三人を招く言葉を口にした。

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