8−5

 翌日、都を出て東に向かい、ナリシュ遺跡を目指した。南の気候に強いアルガ産の馬を使うことになったが、動きを鈍くしたくないというジークの意見を尊重する形で、プロセルフィナは彼の前に乗せてもらっている。

 日差しを遮るものがないので日よけの布をかぶっていたが、どうしようもない暑さだ。サラヤンたちのように髪が長ければもっと蒸して暑かっただろう。

 赤い砂の海を進みながら、強風が吹くと視界が赤く霞むのだとジークが教えてくれた。

 暑さに耐えたおかげで夕暮れまでに湧水池にたどり着くことができた。ここに幕屋を建てて冥魔の出現を観察する予定だ。そこには北上を予定している商人たちが立ち寄っており、レギンが情報収集に向かった。力仕事をさせてもらえず水汲みすら固辞されてしまったプロセルフィナは、近くに行って聞き耳を立てた。

「冥魔がよく出るって聞いていたもので、この辺はどうかなと気になったんですよ」

 レギンはへらへら笑って困ったなあという顔を作っている。なんとかして主人夫妻にこのまま諦めて北に帰ってもらいたいという護衛の態だ。それが真に迫っているのは本音だからだろう。

「大変ですねえ。遺跡周辺はなるべく通らないようにしているので今どうなってるのかはちょっとわかりませんね。昔からこの辺りに言い伝えられているのは、遺跡に眠る魔法はエルテナに由来し、冥魔はそれを欲しているのだということですが」

「はあそうなんですか、危険なんですか、遺跡の周りは」

「最近はひどいと言いますけどね。昔は遺跡に逃げ込めばなんとかなったそうですが、今はその暇もなく襲われるらしいですよ。だからいつの間にか近づかないようになってましたね。まあお守りみたいなものです。遺跡に近づかなくても冥魔には襲われますから。……そういえば北の国々は《死の庭》への対策を講じたと聞きますが、詳しいことをご存知ですか?」

「ああ、あんなの役に立ちませんよ。結局相互協力しようっていうだけで、原因になるものには対処しないんですから」

 レギンがさらっと辛辣に応じたのでジークを探してしまった。彼は騎士たちに指示して幕屋を建てている。声を聞く限り妙に元気だ。空元気だろうか、それとも砂漠で過ごすのが久しぶりだからだろうか。

「《死の庭》を消滅させることができればいいんですけれどね」

 その言葉がくっきり響いたので息を飲んだ。

 しかし驚愕したのは自分だけだったらしい。レギンは世間話の続きで「そうなればいいですねえ」と相槌を打っている。照りつける日差しによるものだった汗が、急に雪のような冷たさを持った。

(《死の庭》を消し去ることができたなら……もう二度とジゼルの影に怯えることなく、ジークのそばに居られる……)

 補給を終えた商人たちは日があるうちに高原地帯に入りたいと急ぎ足で去った。

「聞いてきた話ばっかりだったね、フィナ。……フィナ? どうしたの、気分悪い?」

「……ちょっと汗が気持ち悪いだけ。大丈夫よ」

 それでも心配したレギンがジークに知らせてしまったので、プロセルフィナは完成したばかりの幕屋に押し込まれてしまった。

 しかし本当に疲れていたようで、毛布の山に埋もれてうとうとしていると、目が覚めたときにはすっかり暗くなっていた。

 小雨が降るような静かな風の音がしていた。それがうねると天幕に砂粒が当たりぱらぱらと音を鳴らした。乾いた砂埃のにおいがする。ぼんやりと目を向けると外では火を焚いており、赤い光が幕屋の入り口の隙間の線になってゆらゆらと揺れて見えた。

 ふと気配を感じて頭を動かすと、隣にジークが寝ていた。

 胸を上下させるほど呼吸が深い。ぐっすり寝入っているようだ。

(ずっと緊張していたから……それともはしゃぎすぎて疲れたのかしら)

 かすかに笑いながら彼に毛布をかけ、外に出た。

 途端、砂埃が激しく吹き付ける。火花を浴びせられたような衝撃があり、口の中が砂の味になった。気温はヴァルヒルムの秋くらいだろうか。日中を思えばかなり寒い。

「フィナ様。どうしたんですか、こんな時間に」

 火の番をしていたアルがやってきた。

「目が覚めたから外に出て夜の景色でも見ようと思って。ジークならぐっすりよ。剣はここのところ静かだけど、ゆっくり眠れるのは今だけかもしれないわね」

 アルは瞬きをし不思議そうに言った。

「……ジークのことを聞いた覚えはないんですが」

「あ、ごめんなさい。あなたっていつもジークの心配をしているでしょう。だからつい。……もしかして私の思い込みだった?」

「いや……無自覚でしたがそう言われるとそうかもしれません。確かにジークのことを聞こうとしましたから」

「あなただけじゃないわ、レギンもよ」

 気まずそうに頬を掻いていたが、付け加えると低く呻いて頭を抱えてしまう。今度こそプロセルフィナは笑った。

「あなたたち三人はずっと一緒だったのね。十代のジークってどんなだったのかしら。あなたたちが今も心配し続けるくらい危なっかしかったんでしょう?」

「そう、ですね……」

 アルは遠い目をした。炎のゆらめき、赤い色の向こうに彼の姿があるかのように。

「少年時代のジークは、いつも死にたがっているように見えました」

 そしてどきりとすることを低い声で語り始めた。

「アルガでの生活は彼には合っていたようでしたが、当時は情勢が不安定で、戦や暗殺といった血なまぐさい出来事が頻繁に起こっていました。友人知人を亡くしていくうちに、ジークは、自分には死が取り付いている、だがその死は自分ではなく周囲に牙を剥くのだという思いをどんどん強くしていったのです」

 そうして彼は剣に選ばれてしまった。死への憎悪に付け入られるかのように。

「彼になんとか希望を持たせてあげたかったのに、わたしたちには叶えることができなかった。そのせいでわたしもレギンもひねくれた人間になったかもしれません。ジークの最期を見届けるのは自分たちだと自負するようになりました。だからわたしたちはあなたにあまりいい感情を抱いていなかったんです」

 秘めた本心を話しているのに茶化すように笑ってみせる。彼らが抱いた暗い感情はそうやって誤魔化さなければ重苦しいものになるのだろう。普段のレギンが親しすぎる話し方をするように、アルはこうして深刻な話に微笑むのだ。

「ジークがいつまでもひとりであるようにと望んでいたんです。そうすれば、わたしたちはずっと一緒にいられるでしょう?」

 ジークから貰う気持ちは個々に違う。妬んでも仕方のないことだけれど、プロセルフィナの知らない時間を過ごして絆を得た彼らが羨ましかった。それがどんな時間だったのか、中途半端にわかったふりはしたくないから根掘り葉堀り聞くことはしない。彼らが必要だと思ったときにこうして教えてくれればいい。

「だからあなたたちは何があってもジークの味方なのね。それがわかってよかったわ」

 アルは不意に横を向いて口を覆った。

「あなたも同じですね。あなたもジークのことばかりだ」

 顔を見合わせて噴き出した。すぐに周りをはばかって声を押し殺す。

「少し散歩してくるわ」

「人を呼びましょう。供をつけてください」

「そんなに離れないから大丈夫よ。あなたが見える範囲のところにいるわ」

 不満そうだったが何かあったら必ず声を上げることを約束した。そして砂漠に踏み入ってすぐアルに見えるよう大きく手を挙げた。ここから遠くにはいかないという合図だ。

 水の気配が遠くなると風の感触が変わる。風は軽々と舞い上がり自由に踊っていた。見上げた星々は心なしかあたたかい。誰かが撒いた砂糖菓子のような白い粒の輝きはひとつひとつが丸く、空は水を飲んだように青く染まっていた。陽が隠れ、月と星が支配する青い闇の世界はプロセルフィナに安堵を覚えさせた。この地の太陽はあまねくすべてを照らし出す。後ろめたい部分を持つ人間には眩しすぎるのだ。

 星が沈む地平線上にナリシュ遺跡の影が見えた。

『真実の姿』を映す人口泉のことを思い出してしまう。何が映るのか知りたいような、でも知ってしまったときが怖いような。もし自分が望む姿でなかったら。そこに現れるのがジゼルの姿だったなら。

(いいえ。私はこの名前を、彼がくれるものを信じて抱いていけばいいだけ……)

 温もりを、声を。与えてくれるものを噛みしめる。刻み付ける。求められることは喜びだ。それは愛されているという実感なのだから。

 そのとき心臓がざわりと騒いだ。

 手足が縛られたような錯覚を覚え、かすかな声が耳元を掠める。

 声の源を探したとき、砂漠に空いた暗い穴に気づいた。穴だと思ったそれは闇だった。地の底から溢れる水のように影が噴き出し、人の形になった。

 蛇のようなうごめきは長い髪に。丸太のようだったのが女性の輪郭に。光のように闇が反射し、黒い影と本来の色味が消えては現れる。長い髪が金色だと気づいたとき、我に返った。これはアルガ王国を脅かしている『金色の女悪魔』だ。

「《来ないで》!」

 悪魔はこの世のものではない風を受けて髪をそよがせている。

 顔は見えない。黒く塗りつぶしたように見える。

 プロセルフィナは後ずさった。今の声はアルに届いているはずなのに誰の声もしない。まるで聞こえなかったかのようだ。焦りを見抜いて影がくすくすと笑った。じりじりと後ずさるが、背後を見せた途端に襲われるだろう。

 静かだ、あまりにも。音が全てなくなっている。空はくすんで灰色に。白い星は白いまま、世界から色が奪われていく。

 拳を握り対峙する。

「あなたは誰? 冥魔なの?」

『…………』

「《答えなさい》」

 力を持った言葉が作用し、女の影は震えた。だがプロセルフィナの言葉に抗ったわけではない。影は自身の内側に起こった感情に震えたのだ。

(なに……?)

 なんだろうこの違和感は。血が波のように引いていく。出会ってはならないものに出会ってしまった、聞いてはならない言葉を耳にしてしまった、そんな恐怖が全身を突き刺す。意識が保てずばらばらになりそうだ。

『私は……だれ?』

 鳥肌が立った。

 女悪魔は笑う。くすくす。くすくす。自身が誰なのか問うておきながら、そんなことは瑣末だと一笑に付して楽しげに肩を揺らしている。

『けれどあなたがだれなのかはわかる――ずっと、あなたを、待っていた』

 女は自らを抱きしめる。

『寒かった……暗かった……渇いて仕方がなかった……。あなたがいなくて寂しかったの……会いたかったのよ、あなたに……』

 まるで愛を告げるように細い声で訴える。恋い焦がれるように手を伸ばしプロセルフィナを誘って、笑った。

『だから迎えに来たの――さあ、一緒に行きましょう?』

 目が見開かれた。塗りつぶされた黒の中にくっきりと浮かぶ、青。彼女の足元にあった影が一斉に動き出した。次々と形をなす冥魔を従えるその姿は、冥魔の女王と呼ぶにふさわしいものだった。


  幽冥 大災 代行 英雄

  啓明 墜落 声明 神命

  巡りくる災い 下されし神罰 希望の代替 英雄の不在


 地の底から響く振動は言葉を紡いでいた。それも旋律にのせられた歌になって。


  泡沫 雷鳴 到来 例解

  享楽 再来 崩落 景星

  消えゆく幻影 虚偽働く残光 再来する終末 目出度かや終焉


 プロセルフィナは力を込めてその声に抗う。

「《死命よ。あなたの名前を》……」

 奇妙な単語の羅列に頭が支配され、喉が、声が絡む。歌うべき旋律と詞が出てこない。

 負ける、と思った。このままではこの冥魔の女王に食われてしまう。繰り返しは呪いだ。染み込ませるように、忘れられないように重ねていくことで効果を増幅させる。祝祭日の街でプロセルフィナが同じ旋律を歌い続けたのと同じ。彼らは繰り返すことで縫いとめる。そのうちに何重にも重なるその声に聞き入ってしまいそうになる。

 大地が振動し、揺さぶられた世界から星が落ちていく。世界が黒く染まっていく。

『あなたの名前を知っているわ』

 女は言った。静かな声で。

『あなたは生命。あなたは原初。始まりと終わり。私はあなたの名前を知っている』

 気づけば接近を許していた。

 黒く覆われていた女の姿が明滅し、真の姿をちらつかせる。

『呼んでごらんなさい。私はこのときを、ずっとずっと待っていたのよ』

 金の髪。白い腕。首。頬。薄い色の唇。――霞んだ空の、青い瞳。

 その顔を見た瞬間プロセルフィナは声もなく悲鳴をあげた。

 そのとき赤紫色の光が閃き地に穴を穿つ。闇が切り裂かれ悲鳴がつんざいた。空を覆う黒の天蓋が降りてきたかと思うと、女はそれと混じり合い一つの塊と化した。

 硬直が解けたプロセルフィナは振り返り手を伸ばす。ジークの腕に手を添えると、赤い光は青と白を帯びた紫色に変化した。

『また私を否定するのね』

 塊に目が現れる。その憎々しげな目が見据える先はジークだ。

『あなたは私を拒んだのに。私を受け入れなかったのに……』

 そうして塊は帯状に解けて空に流れた。突風と砂で目を潰されたのを、ジークが抱え込むことで守ってくれる。

 しばらくして風が収まると、星と砂の静かな夜が戻ってきていた。

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