第12章 運命とともに

12−1

 ジークは剣の力で船を守り、赤い雲を突き進んで《死の庭》へ向かった。

《死の庭》の入り口は、海流の流れ込む広い洞窟になっていた。中に入ると貝殻のような様々な色に発光する岩でできており、潮の香りが充満して湿っている。降り場に当たる場所には小船が停まっており、ジークは下船すると続こうとした者たちに告げた。

「ここからは俺一人で行く。俺を待たず、雲が晴れたら船を出し、国へ戻れ。これが最後の命令だ。……王太子らしいことをしてやれなくて、すまなかった」

 これでも今までの無茶を申し訳なく思ってきたのだ。周囲を巻き込んで多くの人間を苦しませた。後悔はしていないが側につく者たちには必要以上の労苦を味わわせたことを負い目に感じていたのだった。

 そして思う。もし王子らしく対外的に振る舞えていたら、自分はジゼルに会うことがあったのだろうか。きらびやかな夜会で踊ることもありえたのだろうか。

 他愛ない夢だった。

「ではな」

 一度手を挙げて背を向けた。追いすがるようなすすり泣きが聞こえ、こんな王子でも惜しんでくれるのかと今更ながら感謝の気持ちがこみ上げる。

 自分の命が望まれないとどうして思ったのだろう。運命をともにできなくとも寄り添い助けてくれる者たちが周りにはたくさんいた。アル。レギン。父。ノーヴス公。そしてプロセルフィナ。今になってようやくわかった。足掻いたことは決して無駄ではなかった。

 洞窟の奥には何もなかったが、剣とつながり魔法に対して鋭敏になっている今のジークには、突き当りの壁が封印であると感じることができる。

 抜きはなった剣を岩場に突き立てた。

 弾力性のある水菓子のようなものを突き破り、光が溢れる。

 錠前が壊れて落ちるようなごとりという音がし、視界が光に塗りつぶされ、岩が白くなり色彩が消えていく。

 そして急に視界も耳も静かになり、巨大な鏡のある場所に立っていた。

 見える限りの地表が雲の留まる空を映している。ここが《死の庭》の内部なのかと一歩を踏み出して、鏡でないことに驚いた。これは水だ。永久のような波紋を描いて行くのを目で追っていくと、遠いところでそれが乱れるのが見えた。

 影が三つある。ジークは水を蹴立てて駆けつけた。神法司の翁が倒れ伏し、さらに遠いところに金の神の女が座り込んでいる。

「ギシェーラ!」

「……ジークハルト殿下」

 力なく応じたギシェーラは青ざめてはいるが、意識はしっかりしているようだ。だがジークが確かめると、司長と思われる老爺は意識を失っていた。

「何があった?」

 ギシェーラは黙って正面の空間を指差した。

 するとそこに帯のような闇が生じる。闇色の糸から生まれ出たのはジークのよく知る顔を持つ女。

「ジゼル……」

『はい。お姉様』

 だがまったく似てはいない微笑で甘くギシェーラに呼びかけに応える。

 彼女が司長の生命力をすすったのだろう。神法司の長ならば多少なりとも冥魔に対抗する手段を持っている。それを封じるためにかろうじて生きているというくらいにまで弱らせたのだ。

『やっと来たのね、アイデス。待っていたのよ』

 ジークは問答無用で剣の力を放った。冥魔の女王はするりと姿を消し、再び同じ場所に姿を現す。《死の庭》という異界を警戒して力を抑えたことを知っているのだ。そうしてギシェーラに手を伸ばし、絡め取るようにぎゅっと抱きしめる。子どもがしがみつくような仕草だった。

「ギシェーラに復讐するつもりか」

『復讐なんてしないわ。お姉様は私を迎え入れてくれたもの。愛して、必要としてはくださらないけれど』

 されるがままになっているのは、妹に対する懺悔からだろうか。みなぎっていた覇気はなく、死にかけているかのように虚ろな目をしている。それを見ると尋ねずにはいられなかった。

「ギシェーラ。何故妹を身代わりにした。ジゼルが邪魔だったのか」

「邪魔……?」

 不思議そうに繰り返すと、ふっと笑みをこぼした。それは彼女が本来持つ強い皮肉と侮蔑の顔だった。

「邪魔……そうね、邪魔だったかもしれない。どうして私なのだろうと思ったのだもの。ほとんど同じ頃に生まれ、同じ王女で、同じ教育を受けていたけれど、あの子の方がいつも恵まれていた。才能にも、環境にも、人からの好意にも。だから奪ってしまった。あの子が愛していたオルフを、私のものにした」

『名を書かずにオルフに宛てた私の手紙を、お姉様は自分が書いたことにした。オルフはそれがきっかけでお姉様が好きになったんですって。ねえひどいと思わない?』

《死の庭》の乙女の祝祭日のとき、プロセルフィナに頑なな態度を取った理由はそれだったらしい。そしてオルフもまたギシェーラの抱えた鬱屈、あるいはジゼルの思いに気づいていたのだろう。

「ジゼルも悪いのよ。私が欲しいものを全部持っているくせに、切ない顔をして『お姉様が羨ましい』と言うの。何が羨ましいの? こんな小娘にどんな力があるっていうの」

 涙を浮かべて癇癪を起こしたようにギシェーラは声を震わせる。

「あらゆる汚い手を使ったわ。賄賂、買収、自分の身も削った。私はうまくやったわ。だってジゼルは全然気づいていなかったもの。きらきらした、美しい春空の瞳で、私を見つめて『大好き』と言うの。私は私のことを、この世で最も憎いというのに」

 白く透き通るほど青ざめた頬を涙が滑り落ちる。

「ジゼルなんてきらい。だいきらいよ」

 細く頼りない女の肩を冥魔の女王は抱きとめる。

『私たちはひとりね。誰からも必要とされない。誰からも愛されない。だから自分だけが自分を望んで、愛してあげられるの』

「ちがう……私は……」

『自分可愛さに私を殺すようなあなたを誰が愛してくれるというの?』

 ギシェーラがひっと息を飲んだ。

『どうして思ったんでしょうね、愛してくれるなんて』

「ジゼル、ごめんなさい。許して」

『許さないわ。ねえもし逆の立場だったら、お姉様?』

 あなたは私を許さないでしょう?

 白い手がギシェーラの細首を締め上げた。しかしジークが再び放った力に飛び離れる。ギシェーラは咳き込んで涙ぐみ、そのまま泣き伏せてしまった。

「……そうよ、私は必要とされない。城の人間にも国民にも。何をやっているんだと怒りの声が投げつけられ、何もしていないじゃないかと責め立てられる。オルフはジゼルの影を追いかけ続けて、息子は怯えた目で私を見る……私はもう、生きていても、虚しい……」

 泣き濡れた美貌を歪めてギシェーラは叫んだ。

「だから戻ってきたんでしょう、ジゼル。私を罰するために。私からすべてを奪うために!」

 冥魔の女王はゆらゆらと影を揺らめかせている。その顔に浮かぶのは憐れみだ。自分が抱いてきた理想の姉がただの虚像であったことをすでに知っている。

『私が欲しいのは、私だけ。復讐したって私の欲しいものは手に入らない。だからいいことを教えてあげるわ、お姉様。必要とされたいなら《死の庭》に自分を捧げればいいのよ。あなたが本当の《死の庭》の乙女なんだから、世界を救ってみせればいいの。そうすればきっとみんながあなたを讃えてくれるわ』

 ギシェーラはぽかんとしていた。

 だがジークは冥魔の女王の足元、鏡写しになったそこに影がじわじわと集まっているのを見た。座り込んだギシェーラに手を伸ばし、絡めとろうとしている。

「ギシェーラ! 耳を貸すな、護人は身代わりだ。本当の封印はこの剣にしかできん!」

 剣を掲げると、赤紫色の光が空高くまで伸びて異界の空を貫こうとする。

『あなたにできるの、アイデス。剣の運命に飲まれるのをよしとするの? 私を何もできない生贄だと詰っておきながら、自分がそれになるというの!?』

 煮えたぎる怒りと嘲笑をぶつけて冥魔の女王は笑う。

 剣を構えてジークは言った。

「冥魔の女王――ジゼル。お前を救うために」

 燃えるような熱風が吹き付け、皮膚を焼いた。ジゼルの放った力だ。

『……嘘つき。嘘つき、嘘つき嘘つき! 私のためなんて嘘! プロセルフィナのためでしょう! あなたは私を選ばなかった。私じゃなく「プロセルフィナ」を選んだ! 私を救うなんて嘘をつくな!』

「五は、一には戻れない」

 怒りを閃かせていたジゼルは、不意を打たれたように叫ぶのを止めた。

「一は二になれても。四が五になっても。――過去には戻れない。永遠に同じ自分はいない。プロセルフィナはお前にはなれない、だが俺の目には、泣き叫ぶお前がプロセルフィナに見える」

 生きる理由がほしい、あなたのために生きたい、プロセルフィナがそう願ったのは欠けてしまったはずの過去が残っていたからではないのか。必要としてほしいと叫ぶ姿はこんなにもよく似ている。その理由を手に入れられたのがプロセルフィナであり、手に入れられずに傷つき続けるのがジゼルだ。

 それはどちらも彼女だとジークは思う。

『……何が嬉しいの?』

 面映ゆくて微笑を浮かべたのを見咎めてジゼルが尋ねる。

 すべての出来事は札を重ねるように、輪を一つ一つ連ねるように続いていくものだ。どこかの時点でジゼルはプロセルフィナになった。ジークは過去がなくともプロセルフィナを愛おしいと思った。

 その過去が目の前に現れたとき、愛さないわけがあるだろうか。

「お前は最初から俺の運命だったからだ」

 ――どのみち自分たちはお互いを望んだにちがいない。

「お前はジゼル、そしてプロセルフィナだ。それはお前が一番よく知っているはず。だから戻れ、あるべきところへ。そうすればもう一度会ったとき、望む言葉を言ってやれる」

 お前が俺の運命なら、お前を救う理由は十分だ。

 ジゼルは呆然と目を見開いたまま、何度も息を飲み下して戸惑っていた。

『……私を?』

 短い問いかけは彼女に怒り以外の感情をもたらしたようだった。憎しみをたぎらせていた目は縋るようにしてジークに注がれる。

『あなたは私を必要だというの?』

「ああ。お前がいなければ俺はプロセルフィナに会えなかった。お前という過去がなければ、今の俺はいなかったんだ」

 ジゼルのまとう闇が小さく萎んでいく。

「プロセルフィナに会ったら俺の言葉を伝えてくれ。――『どんなお前も愛している。だから、もう自分を許してやれ』」

 そのとき耳に届いた旋律は幻だったのかもしれない。けれど確かに聞こえた。彼女が自分のために歌う声が。


  微笑みを

  指先を

  呼ぶ声を

  この胸に満ち溢れる想いを

  ありがとう

  幸せだった


 剣の光が春を思わせる菫色に変わる。世界を変える力は導く力に変わった。この歌を辿っていけば、きっと世界は救われる。

 ジークは呟いた。彼女の耳元で囁くように。

「お前を救うことができるなら……世界を、救ってやってもいい」

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