12−2

 急ぐ気持ちがプロセルフィナを舳先に立たせていた。船は思うように進まない。早く行かなければジークが剣とともに消えてしまう。そのとき船の先端に闇の塊が現れた。プロセルフィナと同じく焦燥に身を焦がしていた騎士たちがあっと息を飲む。

 現れたのは冥魔の女王だ。

 だが彼女は今までとは異なり、少女のような悲しい目でこちらに相対していた。

『アイデスが言ったの。「お前はジゼル、そしてプロセルフィナだ」って』

 人形が初めて泣いたかのように、己の感情に気づいていない様子でほろほろと涙をこぼし始める。

『私は……誰かに必要とされているの……?』

 プロセルフィナは、敵意と憎しみを持って対峙していたはずの彼女を急に愛おしく感じた。彼女はただ悲しいだけなのだ。一人であることを恐れて必死に訴えているだけ。――お願い、そばにいて。ここにいる意味を与えて。誰か。

 ――それはずっと私が抱いていた望み。

「……怖かったわよね」

 プロセルフィナの呼びかけにはっとジゼルが息を飲んだ。

「誰からも必要とされないことが怖くて、一人になりたくなくて、必死に自分を支えてきただけ。私は私を愛している、だから絶望することはないんだって。でもみんな」

『でもみんな、私をひとりにする』

 子どもが反論するような、頼りない悲しみの呟きがジゼルから漏れた。

 悲しみが流れ込んでくる――父と母が先に逝ったときの悲しみ。オルフが姉を選んだこと。ギシェーラは自分を身代わりとして差し出したこと。ジークが自分ではなくプロセルフィナのものであること……。『私』を選んでくれなかったという悲しみだ。

「そう……みんな私をひとりにする。でもそれは私に限ったことではなくて、この世界すべての人間に約束されたこと。人はいつか必ずひとりになる。だって生きては死に、どこかで生まれるから。終わりのない命はないし永遠に続くものもなく、別れのない人生もない。……だからそうね、本当はこの世界すべてが《死の庭》なのかもしれない。《生と死の庭》、それがこの世界」

 すべては移り変わる。時は戻らない。

 でも変わらないものもある。この世界も。自分も。誰かも。

 だってジゼルは――プロセルフィナは――ずっとひとりになりたくないと思ってきたのだから。

「これからも孤独を感じる瞬間はやってくる。それでも一緒にいたいと思う人ができた。――ねえジゼル、『私』はある部分では不幸だったかもしれない。けれど未来には幸福が待っているかもしれない。ほんのささやかでもそれを願っていたいの。ジークと一緒に」

 だから一緒には行けないとプロセルフィナは言った。

 するとぽつりとジゼルが言った。

『アイデスが言った。「どんなお前も愛している。だからもう自分を許してやれ」って』

 それを聞いて、ぐっと涙がこみ上げた。

 ジゼルは私ではない、彼女のように世界を呪ってなんかいないと否定したことを見透かし、過去の自分は必要とされなかったから記憶を失ったのだと考えていたことや、必要とされるものにならなければと気負っていたことを知っているかのようだった。

 不安そうにジゼルはこちらを見つめている。

 ジークの言ったという言葉が胸にしみた。

 私はプロセルフィナ。そしてジゼル。

 鏡写しの愛と憎しみ、光と闇、幸と不幸、それでも彼女わたしかのじょだ。

「私はあなたには戻れない。私はこれからもあなたを置いて、ずっと遠くへ行ってしまうでしょう。でもあなたのことは忘れない。未来にどんな幸せが待っていたとしても、あなたのことを思い出すわ。それでもいいなら一緒に行きましょう?」

 ああこれは、ずっと自分に言ってやりたかった言葉だ。

 私は不幸ばかりを拾い上げて泣いたりはしない。ジークと紡ぐ未来を幸せなものにするために。

『あなたは私を許せる? 弱虫で……』

「……臆病で?」

『中途半端な自分を、あなたは許せるの?』

「……どう、かしら。わからないわ。でもそんな私をジークは好きでいてくれたから、好きになってみたいと思うの。そうすればきっと許せるようになると思うから」

 柔らかな笑い声が重なった。

『……私もあなたを許してみるわ。プロセルフィナ。ジークはね、世界を救ってやってもいいと言っていたわ』

 涙をこらえて手を伸ばす。肩や腕が痛くなるまで相手を求めて、ようやく触れ合った。掴んだ感触も体温も感じない。ただ内側に熱いものと冷たいものが流れ込み、深く根を張る感覚があった。

 悲しみ、孤独、寂しいと叫ぶ痛み。涙。そばにいてほしいと願う心。裏切られたという強い憎しみ。黒。闇。冬。凍てつく冷たさ。それらを突き抜けたあたたかな光。すべて。積み重なり、満ち、あるべきところへ戻ってくる。

「ああ……」

 声が聞こえる。

 ――お前を救うことができるなら……。

(あなたは私を救ってくれるのね)

 顔を上げる。海には赤い霧と雲が渦を巻いている。生き物の気配が感じられない重い海の色、霞んだ太陽の光、腐臭を漂わせる海風は、鋭敏になった感覚には鋭すぎるほど感じられた。

 だが倒れるわけにはいかない。

「フィナ」

 レギンが呼ぶ。アルが、キュロが、騎士たち、水夫たちがこちらを見ている。

 彼らに頷き、彼方にいる人を思った。東の海の果ての果て。世界の終わり、この世が尽きるところ、《死の庭》、その鍵を担わなければならなかった彼を。

 あなたへの想いは数えきれない。

 でもどんな言葉にしても「愛している」という一言にしかならない。どれだけ美しい言葉を並べ、あなたを想っても、なにものにも例えようがないからだ。

 だからプロセルフィナが歌うのは、詞のない、どこか遠い世界の歌だった。

 それは円環の音の粒、節、流れ、きざはし。最初からあった気がする、もしくはようやくたどり着いた場所で知った巡る世界そのもの。ここには始まりと終わりがある。愛も憎しみも生も死も、ここで尽きてまた生まれる。円環を描く。

 歌っているとどこまでも行ける気がした。時間も場所も超えて、彼に届くだろう。

 この歌があなたに寄り添う。

(だからジーク、あなたはひとりではない)

 私は、ずっとそれが言いたかったのだ。

「――――……!」

 そのとき高く空を突き抜けた光。

 光が消えるとまるで闇が降りてきたかのように世界が一度暗くなる。再び明るさを取り戻す頃には、風も海も静かになり、空にあった雲はどこかへ去っていた。プロセルフィナは、周囲に広がる青い色彩に呆然と立ち尽くす。

 おお……と感嘆の声が上がった。

「《死の庭》の雲が消えた……」

 彼方に焼きついた光の行方を辿るが、それはあっという間に消えてしまう。どっと甲板に膝をつき嗚咽する騎士の向こう、その方向から船が来るが、そこに立っていてほしい人の姿はないことが何故かわかってしまった。


 世界を脅かす呪われた地、東の果ての海に渦巻く《死の庭》はその日を境に消滅する。

 そしてプロセルフィナは愛する人を亡った。

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